3443通信 No.380
訪れた人たち
~武永 真さま(元仙台藩白老元陣屋資料館 館長)~

図1 院長と武永さま(右) 図2 アイヌ文化フェスティバル
2026年9月12日(土)、3443通信 No.316、360の同コーナーでもご紹介している北海道白老町の武永真さまが来仙され、アイヌ文化フェスティバル(図1、2)の基調講演の講師を務められました。
現在、武永さまは長年館長を務められた仙台藩白老元陣屋資料館を退職されて第二の人生を歩まれている武永さまですが、今回は仙台での講演ということで是非もなく承諾されたとのこと。
折角の機会なので、2007年の白老町学校健診からお世話になっている秘書青柳が講演を拝聴させて頂きました。
講演当日は、奇しくも仙台市内で毎年恒例のジャズフェスティバルが開催されており、講演会場のエレクトロンホール前の定禅寺通りは、終日歩行者天国として大いに賑わい(図3、4)を見せていました。
講演会場となったホールは、すでに多くの聴講者が座席で講演の開始を待ちます。

図3 会場のエレクトロンホール宮城 図4 会場目の前では仙台ジャズフェスが開催中
院長と北海道白老町との関わりについては、エッセイ『アレルギー疫学調査の思い出』(3443通信 No.347)をご覧下さい。
仙台陣屋物語
講演は一本の動画から始まりました。
タイトルは『仙台陣屋物語』(https://www.youtube.com/watch?v=xRwBmFBXOQ0&t=16s)。前述の仙台藩白老元陣屋資料館で放映されている映像資料の一つで、元陣屋が建てられるまでの経緯を紹介しています。
白老の地に警備本部となる元陣屋が造られたのは1856年(安政三年)のことです。事前見分をしていた三好監物は、幕府から建設地として指定されていた苫小牧ではなく、さらに西にある白老に元陣屋の建設を行なうよう指示します。
この元陣屋は、中枢機能を設置した内曲輪(うちくるわ)と藩士たちが居住する外曲輪(そとくるわ)の二重構造とし、蛇行する名残川を水堀に見立てた天然の防衛拠点でした(図5、6)。

図5 元陣屋の縮尺模型 図6 監物の描いた元陣屋の図
そこから少し離れた丘には、地元仙台から勧請(かんじょう。神仏を分霊して移設すること)した塩釜神社(図7)と愛宕神社を建立。加えて地元仙台の赤松の木を植樹し、故郷から遠く離れた地で警備にあたる藩士たちの心の拠り所としました。
警備を任された東北諸藩のうち、仙台藩の警備範囲は西の白老から道東の根室に加えて国後島と択捉島を含んでいました。蝦夷地の約3分の1を占める広範な地域(図8)を警備することは並大抵のことではありません。監物を始めとする仙台藩士約150名は、先住民族であるアイヌの人たちと協力関係を得ながらこの困難な任務にあたりました。

図7 塩釜神社

図8 緑部分が仙台藩の警備範囲
白老は太平洋に面した道南にあるため、比較的温暖な気候ではありましたが、それでも仙台に比べて冬の厳しさは想像を絶するものでした。特に14~19世紀にかけて地球全体がミニ氷河期と呼ばれる寒冷期にあったこともあり、北の地である蝦夷の冬はまさに極寒の地でありました。
選りすぐりの仙台藩士とはいえ、蝦夷の冬と野菜不足などからくる病魔に抗うことは難しく、二十名以上の藩士が命を落としてしまいます。こうした苦難を乗り越えながら警備に当たっていた藩士たちでしたが、その終焉は外国ではなく日本国内から訪れることになります。
1868年、戊辰戦争の勃発により、日本国内は薩摩・長州藩を中心にした新政府軍(官軍)と旧幕府側との内戦に突入します。京都郊外の鳥羽・伏見において勝利した新政府軍はさらに東進を進め、江戸城無血開城、会津戦争、函館戦争と旧幕府勢力を次々と下していきます。
その新たな時代の波は、白老にまで及びます。
アイヌの人々を戦場に巻き込ませたくなかった仙台藩士たちは、その時の代官であった草刈運太郎を一人残して仙台への撤退を決めます。やがて白老に新政府軍が来襲し、草刈運太郎は乱暴をいさめようとしますが重症を負わされてしまいます。その後、アイヌの人々によって白老近隣の社台に匿われた運太郎は自身の再起が叶わぬことを悟り、ひとり海岸に出て、遠く仙台のある方角(南)を向いて自刃しました。
その少し前、監物は仙台藩主・伊達慶邦の指示で京都に赴任していました。
このとき監物は、鳥羽・伏見の戦いの帰趨が新政府軍の勝利に終わったことで、時代の波が新政府側にあることをお肌身で感じ取りました。そして仙台に帰った監物は、仙台城下が戦火に晒されるのを避けるために藩士たちの説得にあたります。しかし、いまだ主戦派が根強かった藩内のあおりを受けてしまい、監物はお役目を解任されてしまい領地である黄海(現在の岩手県一関市藤沢町)に戻り、その後、新政府軍への内応(裏切り)を恐れた藩に登城を命じられますが、それを拒否した監物は自宅で切腹します。享年54歳でした。
これが白老元陣屋と三好監物にまつわるエピソードです。
このような歴史的なご縁もあって、監物から数えて5代目子孫となる院長は、耳鼻科医のいなかった白老町の学校医として、1989年から30年間に渡って耳鼻科健診を毎年実施してきました(現在は70歳を契機に辞任しています。図9、10)。

図9 学校健診の光景 図10 学校健診の光景
武永さまはお話のなかで、仙台藩だけがアイヌの人々との協力・協調関係を築いたことに触れられました。これは当時、立場の弱かったアイヌの人々に対する不平等な扱いをせず、あくまで協力者として敬う姿勢を取っていたからだと話されていました。そうした藩士たちの姿勢が、新政府軍によって傷を負わされた代官・草刈運太郎を匿うという行動に繋がったのだと、武永さまは熱く語られていました。
こうした埋もれてしまった歴史の真実を拝聴できたのは、個人的にもとても幸運だったと思います。
現在、白老元陣屋資料館は第二次整備計画を進めています。
これまで本格的な石垣は整備されていなかったとされていた元陣屋でしたが、新たに駐車場付近に石垣が発掘され、その発掘と整備が進められています。将来的には今のような比較的自由な敷地への立ち入り方式から、本来の城のようにきちんとした入口を設けて入場できるようにしていきたいと、武永さま(図11)はお話されていました。

図11 講演する武永さま
また、コロナ禍の影響でいまだ訪れていない旧アイヌ民族博物館改めウポポイ(民族共生象徴空間。図12~15)も、ぜひ見学したいと思っています。

図12 現在のウポポイ(航空写真)

図13 旧アイヌ民族博物館時代のポロト湖 図14

図14 アイヌの人たちの暮らした復元住居
追記「三好家のご縁」
この記事を作成している最中、なんと大阪にお住いの三好一族の医師からお手紙を頂戴しました。その方の母方の御実家が三好家に連なっており、その家系に関する考察を『歴史研究』に上梓されたとのお話でした。こうしてご先祖様由来のご縁が今もこうして繋がっていることに、院長は大変感激しておりました。
早速、その先生に研究資料を添えてメールを差し上げたところ、以下のようなメールをいただきました。
「衛生仮説の一つとして、まことしやかに主張された(されている)「寄生虫感染はアレルギーを抑止する」との説(以下、URLをご参照ください)。
この説に対し、実際には寄生虫感染がアレルギー炎症に影響しない事を実地の臨床データからお示しになった三好先生のお仕事は、若い頃にタイムリーに拝読しております。必ずしもアレルギーと寄生虫免疫は二律背反ではないことを知り目からうろこでした。私もその後、種々の感染で増悪するアトピー性炎症に着目した研究を行い、タイプ1(Th1)免疫とタイプ2(Th2)免疫が必ずしも二律背反ではない事をささやかながら報告(Proc Natl Acad Sci USA 2006 Jun 6;103(23):8816-21.等)致しました。ただし、これはデータの出し易い所詮マウスでの検討です。
三好先生のお仕事の素晴らしく特に心から敬服させられるのは疫学調査しかり、地道な実地の検討である点です」
(以上)
わざわざご丁寧なお手紙とメールをいただきましたこと、心より感謝申し上げます。
●エッセイ『本当に“清潔はビョーキ”か?』(宮城耳鼻会報 61号|3443通信 No.314)
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