3443通信 No.359
寄稿文『私は“大往生”を目指したい』
藤原 久郎
医療法人 稲仁会 三原台病院(本原班・リハビリテーション科/耳鼻科)
(長崎市医師会報 第694号 令和6年12月掲載)
はじめに
私の古い友人である藤原久郎先生(3443通信 No.319 「訪れた人々」https://www.3443.or.jp/news/?c=18279)から、長崎市医師会報(2023年3月号)に寄稿された記事を頂きましたので、ご紹介させて頂きます。
※以下、本文です。
団塊の世代である自分がいやおうなしに死を意識する後期高齢者の歳になった。身近な人が亡くなった時、夕焼けの空の中に音も出さずにひとすじ光る飛行機雲に見とれていたことがあったが、遠く見えなくなっても亡き人を偲んでたたずむ自分がいた。
人は必ず死ぬ
「生と死」に関心を持ち、自分史をどんな最終章にするかに関心を向けている自分に気づく。
誰しも老年期を迎えて考えることは、健康寿命をできるだけ伸ばし残りの人生を謳歌し、やがてベッド上での生活となる看取り期の段階になったら、最後は家で家族に見守られ、会話を交わし、すみやかに苦しまずに死にたいものだと願っているだろう。さらに、できれば最後の最後まで好きなものを食べ、逝きたいものである。はたして希望は可能であろうか?
私はいわゆる平穏死とか自然死といわれる死に方で、在宅主治医先生から死因を「老衰」と書いてもらえる終わり方を願っている。周りから「大往生」だったねと言われる死に方をしたいものだと心から願っている。誤嚥性肺炎を繰り返し呼吸器症状に苦しむような死に様だけはしたくないものだ。この咳と痰の症状がひどいと夜眠れないので苦しいからである。穏やかに最後の幕を閉じたいのである。
「大往生」するには
「大往生」と言われる死に方をするにはどうすればいいのであろうか?
まずは廊下は否応なく来るのであるから、アンチエイジングに徹し、がん定期健診で早期発見に努め、生活習慣病は少々あってもいいが、大病にはならない程度にコントロールしたいものである。
食生活に気をつけ、できるだけ薬は最小限、良眠を取り、笑いとユーモアを絶やさず、ロコモ体操をしながら養生生活を送りたいものである。加齢で肉体が衰えるのは仕方がないが、意欲を司る前頭葉を日々刺激するような生活を最後まで楽しみたいものだ。
身体が動くうちは、健康寿命を意識して、やりたいことをやっておきたいものだ。様々な趣味を思う存分やることだろう。私の楽しみは山々を登り、海に出かけ自然を満喫することにある。山城を訪ね歩き歴史に触れてみたり、仲間とゴルフして、鄙びた温泉を味わい、地元食材の料理を楽しみ、音楽を楽しみ、様々な人との交流を楽しみ、様々な文化に触れることを楽しみにしたい。悔いがない人生であったと言えるようにしておきたいのだ。戦争がない平和国家日本によくぞ生まれたものだと感謝している。
世の中には100歳でまだゴルフをしている人がいた。ゴル友は友人の息子達とか。なんとも微笑ましい。そこまで行かなくても自分も今こそ青春ならぬ「老春」を謳歌しておきたいものである。健康寿命を長くして、このゴールデン期間中に自分がやりたいことを済ませておくこと、また残された人たちのために事前指示書や遺書を書き上げておこう。健康なうちにやるべきことを済ませておくことが「大往生」への最低条件だ。
ベッド上の生活になったら
しかし、頑張って健康寿命を保って元気でいても、いつ何時、ベッド上の生活がくることは避けられない。幸にしてがん、生活習慣病を持たない私は、今の所、一番考えられるのは老化による運動機能低下、高次脳機能低下・視覚系聴覚系機能低下による総合的平衡失調からくる不慮の事故で、転倒して骨折→ベッド上の生活というコースであろうと予測している。
骨折してベッド上での生活を余儀なくされると、運動不足になるので、筋量は落ち体重減少、さらに平衡障害、注意・判断力が低下し、再転倒のリスクもさらに高くなるだろう。
ベッド上の生活が長引き、それに加齢と運動量低下が進めば、さらに食は細り、体重が減ってくるだろうからここら辺の段階で死の覚悟をすることとなろう。
死を覚悟した場合、人はどこを死に場所と選択するだろうか? 私も殆どの人が希望する自宅を選択したい。理想的には山や海が見渡せて森の中のような環境であろうが、様々な事情でそうもいかないだろう。古より人間の魂は安息の地として大自然の中を求めてきた。病院や介護施設を希望するのは、老老介護の家族負担や、仕事を持っている家族に迷惑がかかるのを避けるために消極的選択の結果であろう。自宅が贅沢な希望とならないように時代を望むものである。
私は介護サービスをできるだけ利用させてもらって、自分の自由がきく自宅で死ぬことを希望するものである。
終末期の嚥下機能の低下をどうする
さて、看取り期の会話可能終末期においてベッド上生活で最後まで食べれるであろうか? 食事量が減ると体重が減り、免疫力も落ち、体力は低下してくる。代謝が下がり体は冷えてくるであろう。飢餓と脱水状態近くなるだろう。うとうとした傾眠状態も生じてくる。調子が良ければ親しい人たちに最後の挨拶をしておこう。
この時期には浜口町にあるかにやのおにぎりを最後に一口食べておきたい願いがある。かにやのおにぎりは米粒がキリッとツヤがあって美味しい。海苔も美味しい、塩をまぶした親父さんの手から握られたおにぎりの味は微妙に甘露で、至福をいただけるのである。おしどり夫婦の愛情がたっぷりのおにぎりを一口味わっておきたいのである。
が、やがてさらに覚醒も下がって体力が落ち、自力で食べれない時期がくる。会話もおぼつかないだろう。はたしてまだ食べられるであろうか? この時期でも私はまだ水やスープ類は食べれる可能性はあると思っている。というのは骨格筋が機能低下しても、呼吸筋からの発生である嚥下筋は呼吸が止まるまでは、まだ動いてくれるはずと思っているからだ。身体は脱水に傾いているので、脳内ホルモンが出るので苦しくはないはずだ。冷水にした多良の名水を飲みたいものだ。冷水は脳を刺激し、脱水気味になっている身体には相当にうまいはずだ。スプーン一杯程の水には、まだ気道にはむせ反射はまだ十分残っているだろう。身体は脱水傾向になれば、唾液量は低下するので、喉に溢れたら誤嚥からくる不顕性誤嚥性肺炎のリスクは少なくなる。誤嚥性肺炎が予防できるはずだ。
看取り期でも水は飲みたい
命には生物学的命と精神性の命の2つの領域があると言われる。2つの命は重なっている。少なくとも誤嚥性肺炎などを予防し、起こりかけても発症させない医療技術で誤嚥性肺炎を撲滅し、死に逝く人の最大の苦痛を取ってあげれば、自然と精神性の命の領域に向き合ることになる。ベッドサイドでできるVE検査による嚥下評価は必要な武器になる。
その結果、最後まで尊厳を尊重した寄り添う医療・ケアに集中することができるはずだ。人生の最終章にあたり、患者さんの自主性を尊重し、患者さん・家族に寄り添う看取りにエネルギーを使えるはずだ。
誤嚥性肺炎は終末期医療の一番恐ろしい病気と恐れられている。医療者も誤嚥性肺炎だから治せないものだと諦めることが多い。しかしこの終末期の誤嚥性肺炎をなくすことができれば、在宅でも穏やかな看取りができると信じている。患者さんが苦しまない看取りができる終末期医療の時代がそこまで来ている様に私には思える。
刻々と変化していく暁や夕焼けや星空がみれる大自然の中にいると、西行法師の
なにごとのおはしますか知らねども かたじけなさに涙こぼるる の歌に共感する。
自分自身は最後まで、自然な感謝の気持ちで死を受容し、老木が枯れるように黄泉の世界に行けたらいいなと願っている。魂は自然の中に戻れるのである。
参考文献:柳田邦男編 苦悩からの解放 最後まで生きるために(下巻)