3443通信 No.359
伊勢神宮を参拝してきました
院長 三好 彰
図1
はじめに
2024年11月、食欲・芸術と意欲が増してくる季節ですが、私たち医師にとって秋は大事な学会がいくつも控える勉学の秋でもあります。
11月13日(水)~15日(金)にかけて、名古屋にて第83回日本めまい平衡医学会が開催されました(図1)。
当院ではめまいの専門治療を標榜しているため、めまい患者さんの来院数は徐々に増えてきているのが現状です。そのため毎年開催されているめまい学会は欠かさずに参加していますし、今後10年は診療を頑張りたいと思っています。
そして今回は、社業繁栄の祈願をするために三重県の伊勢神宮に足を伸ばしてお参りして来ました。
日本庭園・徳川園
と、本命の伊勢神宮に行く前に立ち寄ったのは、名古屋市内にある徳川園(図2)です。
1695年に徳川御三家のひとつである尾張藩の二代藩主・徳川光友。その隠居所だった屋敷跡に築造された池泉回遊式の庭園で、江戸幕府下にあった大名が作ったことから大名庭園とも呼ばれています。
図2
1931年、十九代当主から名古屋市に邸宅と庭園が寄贈され、その翌年に徳川園として公開されました。しかし1945年の大空襲によって一度焼失し、それ以降は一般公園として利用されていましたが、004年にリニューアルしました。
戦災から逃れた数少ない遺構・黒門(図3)をくぐると、龍門の瀧(図4)があります。別名で龍門瀑とも呼ばれており、鯉が滝を登りきって龍になるという登竜門伝説の故事にならった滝です。この滝には江戸の尾張家下屋敷跡地の滝の石を使用しており、当時の雄姿を再現しているそうです。
図3 黒門
図4 龍門の瀧
そのまま進むと、深山幽谷を描いたかのような渓谷があり、その谷を流れる川は虎の尻尾になぞらえて「虎の尾」と呼ばれています。
虎の尾を眺める虎仙橋(図5)を渡りながら夕刻の森林浴を楽しんでいると、木々の奥から水の音が聞こえてきます。虎の尾に注ぐ大曽根の瀧(図6)です。落差6メートル。岩の汲み方が異なる三段の滝はそれぞれ水飛沫が変化します。ちなみに大曽根とは古くから伝わるこの一帯の地名から取られているそうです。
図5 虎仙橋
図6 大曽根の滝
大曽根の瀧を脇に見ながら散策路をグルっと巡る(図7)と、図2の龍仙湖へと至ります。湖では名古屋城の金の鯱ならぬ金の錦鯉が悠々と泳いでいました(図8、9)。
図7 風光明媚な探索路
図8 金の鯉が!!
図9 年季の感じられる渡し船
徳川家康が築いた名古屋城
天下分け目の決戦である関ヶ原の戦いを制した徳川家康が、1610年に西・北国の各大名に命じて築城を命じたのが名古屋城です。それ以前には織田信長の居城である那古野城がありましたが、信長が清州城に移った後に廃城となっています。夕日を浴びる名古屋城を見上げながら、群雄割拠の時代に生きた武将たちの生きざまに想いを馳せます(図10)。
図10 夕焼けに染まる名古屋城
奇しくも10月5日から11月24日にかけて名古屋城秋まつりが開催中となっており、イベントの一環である菊花大会の出展作品が展示されていました(図11~13)
図11
図12
図13
さて、名古屋城内を見学していると金に輝くきらびやかな虎の絵が目に飛び込んできました。これは重要文化財障壁画である『竹林豹虎図』の復元模写です(図14、15)。大戦中に受けた空襲によって名古屋城のその殆どが消失してしまいましたが、奇跡的に被害を逃れた原図は厳重に保管されているそうです。
他にも部屋の格式によって花鳥画、風景画とテーマが変遷していき、部屋の装飾も豪華絢爛なものへと変わっていくのが見て取れました(図16~19)。
図14 竹林豹虎図の復元模写
図15
図16
図17
図18
図19
図20
伊勢神宮をお参り
近鉄名古屋駅から在来線を乗り継ぎ、やって来たのは伊勢市です。
長らく日本人の信仰の中心地となっていた伊勢神宮ですが、古代から皇室の祖先神を祀っているとの理由から一般庶民や貴族でもあってもおいそれと参拝することは出来なかったそうです。ですが、律令制(法と罰則による統治)が衰退していくなかで信仰の在り方も変化し、伊勢神宮も一般の社寺参詣の影響を受けて民衆信仰の対象となっていたそうです。
長い戦乱期を終えて太平の世へと移り変わった江戸時代。街道が整備されたことで人々は人生の内に一度は伊勢神宮にお参りしたいと思うようになりました。そして始まったのがお伊勢参りです。
実はこの時代、空前の旅行ブームであったことが後々の研究から分かって来たそうです。
折角、伊勢まで足を伸ばしたのだから京都や堺(大阪)も見てみたいと、数カ月もの時間をかけて旅行に出る庶民が増えていったのだそうです。
その数は、1625年4~5月の50日間で約362万人もの人がお伊勢参りをしたとの記録が残されています。また1829年遷宮の年の神事には、3日間で118万人が伊勢神宮を訪れたそうです。さらに加えて最大の参拝者を誇った年があります。それは1830年のことで参拝者数は約500万人という途方もない数に上り、当時の日本の人口3,000万人とすると約6人に1人が参拝したことになります。
冬至は御師(おんし)と呼ばれる神職たちのお伊勢参りコーディネーターが日本各地でPR活動を行ない、お伊勢参りの火付け役となったとも言われています。
さて、そんな過去の人たちの例に倣って、いざ伊勢神宮へ!
農業を祀る外宮
近鉄名古屋駅から在来線を乗り継ぎ伊勢市駅(図20)へ。そこから500メートルほど南にある伊勢神宮・外宮をお参りしました。
図20 伊勢市駅前
古来から火事を防ぐために造られたという火除橋(ひよけはし)を渡ると、一の鳥居(図21)が見えてきました。そこから境内を進んで行くと、参道には推定樹齢300年以上もの巨大なスギが林立しています。幹の太さだけで4~5人が手を繋いで囲めるほどの太さがあり、その大自然の迫力には度肝を抜かれてしまいます(図22)。
外宮の中心には御正殿である豊受大神宮(とようけだいじんぐう)、通称:正宮(図23)があります。
図21 外宮の一の鳥居
図22 樹齢300年を超える大杉
図23 豊受大神宮(正宮)
さらに南にある内宮とほぼ同じ様式で建てられていますが、ここ外宮は奇数本の樫木を、内宮は偶数本の樫木を用いて御正殿は建てられているおり細かい点で差異が見られます。
ほか、伊勢市を縦断する宮川を治めるための土地神を祀る土宮(つちのみや。図24)や、風雨を司るご祭神を祀る風宮(かぜのみや。図25)など、農業の神を祀る外宮ならではの社殿があります。
また、境内の勾玉池のほとりに建てられたせんぐう館にある奉納舞台(図26)では、中秋の名月の時期になると全国から厳選された短歌や俳句が読まれる神宮観月会が行われるなどのイベントも実施されています。
図24 外宮の土宮
図25 外宮の風宮
図26 奉納舞台
商業を祀る内宮
さあ、次いで訪れたのは内宮です。
商業を祀っていることもあって、火除橋の手前にはおかげ横丁(図27~29)と呼ばれる商店街が軒を連ねています。伊勢神宮の門前町として栄えていましたが、高度経済成長期を過ぎた1970年前半になると参拝客は江戸時代の十分の一程度にまで落ち込みました。
図27 おかげ横丁
図28 大賑わいの客入り
図29 ロゴマークにもなっている天鈿女命像(あめのうずめのみこと)
そこで立ち上がったのが、赤福餅で有名な老舗和菓子店『赤福』でした。
まずは見た目からと建物を伝統的な妻入り建築に修景し、その後に町名を「商売を続けられたのは伊勢神宮のおかげ」という意味を込めておかげ横丁へと改名。2013年には655万人もの観光客を招致したと言われています。
おかげ横丁と内宮の境を流れる五十鈴川、そこにかかる日本三古橋に数えられる宇治橋(図30)を渡り、火除橋の先にある一の鳥居(図31)、二の鳥居をくぐった先にあるのが内宮神楽殿(図32、33)です。ここでは一般的な祈祷やお守りなどの授与を行なっています。平日ではありますが、かなりの参拝客が訪れているのが分かります。
図30 内宮の入り口である宇治橋
図31 一の鳥居
図32 祈祷の受付をしている神楽殿
図33 神楽殿
そのさらに深域へと足を進めると、静謐なスギ林に包まれた皇大神宮(こうたいじんぐう。図34)があります。内宮と同様に茅葺屋根が特徴の正宮には、日本神話の最高位である天照大神が祀られています。皇室や日本人の大御祖神(おおみおやがみ)ですから、まさに日本人の信仰の元祖と言えます。ここでは天照大神が授けたとされる三種の神器(電化製品ではありません)の内のひとつである八咫鏡(やたのかがみ)が奉納されています。
図34 皇大神宮
この内宮には、他にも天照大神の荒御魂を祀る荒祭宮(図35)や、古神宝類を納めた外幣殿(げへいでん。図36)など10もの別宮があります。今回は時間の関係上その全てを巡ることはできませんでしたが、日本人ならぜひ一度は訪れてみたいと思っていた伊勢神宮をお参りすることができて、これ以上ない安心感を得ることができました。
図35 荒祭宮
どこにいてもお天道様(天照大神)が見ている。
そう思いながら、日々の診療に精力的に取り組んでいこうと決意を新たにしました。