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3443通信 No.358

 

学校健診シリーズ10
ラジオ3443通信「ロシアの南下と蝦夷地警備」


 ラジオ3443通信は、2010年から毎週火曜10:20~fmいずみ797「be A-live」内で放送されたラジオ番組です。
 ここでは2012年9月4日OAされた、学校健診にまつわる話題をご紹介いたします。

84 ロシアの南下と蝦夷地警備
An.
 三好先生、ここまでは学校健診の重要性と、その結果から分かることの意味について、教えて頂きました。そればかりではなく、むしろそれでは分からないことの意義と、その背後に何があるのかに関しても、お話が進んでいます。
 本日のOAは、どんな展開になるんでしょうか?
Dr.
 江澤さん。一般に行なわれている学校健診が、スクリーニングとしての役割を果たしていることは、お分かり頂けましたよね。
 そして私たちが学校健診の形式の中で、さまざまな疫学調査を、これまで実施してきたこともお分かり頂けたと思います。
An.
 それは江澤も、よっく分かりました。特に三好先生の場合は、日本国内だけでなくて世界各地で、それを実施していますものね。普通の学校健診だけでは得られない、医学的新事実を、いくつも発見しているんじゃないんでしょうか。
Dr.
 江澤さんは、1を聞いて10を知ることがお得意ですけど、ね(笑)。私たちはむしろ、1も知られていない、つまりなんにも無い0から1を、すなわち新事実を発見することを、目標に研究を進めて来ました。
An.
 なんだか、スゴイお話になって来ましたね、先生。
Dr.
 エヘヘ・・・・・・、江澤さんほどじゃありませんよ(笑)。
An.
 で、先生の一連の健診を利用しての疫学調査ですが、最初は北海道白老町での健診からスタートしたんでしたよね。でも、なんで北海道からのスタートだったんですか?
Dr.
 前回もお話ししましたが、ある病気の頻度や傾向を調べるためには、病院など医療機関で待っていても分かりません。
An.
 それは、町中(まちなか)の食堂でカレーの注文とラーメンのオーダーを比較しても、住民の食生活の実態は把握できないのと、似ているわけですものね。
Dr.
 病気の全体像を把握するためには、一般住民の健康状態の調査が必要になりますから。それで、健診の活用が役立つんです。
 ただ、一般の人たちの健診は現実には実行困難ですから・・・・・・。そこで学校健診の応用が、脚光を浴びることになります。
An.
 確かに学校健診ならば、その地域に住んでいる小中学生の、全員を対象に実施されますよね。
Dr.
 学校保健法が、そこで活きるんです。
An.
 と言いますと?
Dr.
 仙台市ではもちろん、そんなことはあり得ないんですけどね。四半世紀前の北海道では、無医村まで極端じゃなくとも耳鼻科医がいない市町村が、結構あったんです。
An.
 それは大変。
Dr.
 私たちが健診に行っている北海道白老町も、そんな耳鼻科医不在の自治体でしてね。学校保健法に定められた耳鼻咽喉科健診が、実行できずにいたんです。
An.
 うーん、それじゃ困っちゃいますよねぇ。
Dr.
 で、白老町という町はですね、仙台市と歴史姉妹都市になっていまして、ですね。
An.
 歴史姉妹都市、ですか。それは、どうしてなんでしょうか。
Dr.
 幕末にですね、江澤さん。ロシアの南下があったことは、ご存じですね?
An.
 えぇ。でもなんで突然、ロシアのお話になるんですか?
Dr.
 その頃の日本は、鎖国状態だったんですけどね。ペリーの黒船がやって来たり、日本を開国させようとする、世界各国の動きがあったんです。
An.
 江澤も、歴史の授業で教わりました。
Dr.
 当時蝦夷地と呼ばれた北海道では、ロシアの船舶が良く見られました。
 司馬遼太郎の『菜の花の沖』で知られる、高田屋嘉兵衛のロシアへの拉致が、1811年には発生していますから。
An.
 江澤もその本、読みました。
Dr.
 そもそも仙台藩では、工藤平助や林子平などがロシアの南下に警鐘を鳴らしていましたが、当時は誰も本気にしなかったんです。林子平などは、幕府に罰せられていますからねぇ。
An.
 「人心(じんしん)を惑わす、不届き者」ってわけですね。今から思うと、ひどいですよね。
Dr.
 でも、1853年のペリーの来日をきっかけに、幕府は1854年に米露と和親条約を締結します。徳川家康以来の江戸幕府の鎖国政策の、終焉(しゅうえん)です。
 それをきっかけに、こうした北からの脅威に対する警戒心が、にわかに高まりました。このため江戸幕府は、そのロシアを警戒して、東北6県の各藩に蝦夷地警備を担当させることになりました。
An.
 へぇー。そうだったんですか。
Dr.
 中でも仙台藩には多大な期待が寄せられ、北方4島を含む蝦夷地の3分の1の警備が、幕府から任されたんです。
An.
 ちっとも知りませんでした。
Dr.
 その時、伊達藩から蝦夷地調査の責任者を命じられたのが、私の5代前の先祖だったんです(図1)。
An.
 えーっ! 先生のご先祖が、ですか?
Dr.
 三好監物というその先祖は、1856年に苫小牧市と登別市の中間にある北海道白老町に、仙台藩の北方警備のための陣屋(じんや)を建設しました。
 当時幕府からは、ユウフツという名前の土地、そこは現在の苫小牧市ですが、を陣屋にと指定されていたそうです。しかし現地視察の結果、白老町に陣屋を建設したのが私の先祖だったんです。
 白老というのはアイヌ語の「シラ、ウォイ」つまり、虻(あぶ)の多い土地という言葉が元になっています。
 それで今でも北海道白老町では、三好監物を町の基礎を作った人物として、記憶しているんです。
An.
 白老町と三好先生には、そんなご縁があったんですね!?
Dr.
 次回は、その歴史的背景のお話です。

図01 P.2

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