2024年9月 No.355
アフガンに殉じた中村哲Dr.を想う
~初めて耳洗をした26歳のパシュトゥン人~
院長 三好 彰
土日祝日診療を標榜する当院には、時にさまざまな人が来院されます。
その中でも特に印象に残ったエピソードとして、2024年5月のゴールデンウィークの最中に、アフガニスタンから来たパシュトゥン人の患者についてお話ししたいと思います。
その方は日本語は一切話せず、現地語のパシュトゥー語しか話せないという事で通訳の方が同行して来院されました。
話を伺うと、数日前から左耳の聞こえが悪いとのことで、それではと患部を視てみたところ耳垢が外耳道を塞ぐ“耳垢塞栓”であることが分かりました。
私はさっそく耳洗の処置を行ないました。
人生で初めて耳洗をするというその方は、とても不安そうな表情を浮かべていましたが、原因が分かるとホッとした様子で処置を受けられました。
私はその方に、アフガニスタンで支援活動を行なわれていた故・中村哲Dr.について聞いてみました。
「Do you know Dr.Nakamura?」
私の拙い英語でも理解して頂けたのか、その方は即座に相好を崩して
「Yes!」
と、答えてくれました。
私も思わず笑顔を浮かべて「Oh! You are My Friend!」と硬く握手を交わしました。
その患者さんと中村Dr.に直接の関わりがあったかどうかは分かりませんが、彼のようなごく一般的なアフガニスタンの方にも中村Dr.の名は知られているという事実に、同じ医師として何だかとても嬉しい気持ちになりました。
私たち医師という職を担う者には、病める人を救うという終始一貫した目的があります。でも、その結果に至るまでのアプローチは人により様々で、私の友人の國井先生(記事『ブラジルでの花粉症(?)調査』)など、時には非常に多岐にわたる分野で活躍する人たちが存在します。
中村哲Dr.も、その中の一人です(図1)。
図1
中村Dr.の生涯を掛けた偉業については、掲載した記事『映画“荒野に希望の灯をともす”鑑賞レポ』(3443通信 No.234)に詳しいですが、中村Dr.は1984年、海外医療協力としてパキスタンに派遣されて以降、20年以上にわたってハンセン病を中心とする医療活動に従事されていました。
その後、活動の場をアフガニスタンへと移した中村Dr.は、個人の力のおよぶ範囲では救える人数に限界があると感じるようになります。
特に、乾燥した荒野が広がるアフガン周辺の土地は常に深刻な水不足に悩まされており、この水不足が解決すれば多くの病気や貧困に対する問題が解消されると期待されていました。
中村Dr.は、多くの人々に呼びかけて自らもブルドーザーの操作を行ない、砂漠のど真ん中に総延長25kmにも及ぶ大規模な用水路を建設し、約10万人の農民が暮せる基盤を作り上げたのです。
その偉業は現地でも英雄的な行動と称賛され、2018年にはアフガニスタンの国家勲章を受章。翌19年には同国の名誉市民権が授与されるに至りました。
ですが、そんな中村Dr.を、凶弾が襲います。
車での移動中に武装勢力に襲われた中村Dr.は、胸に一発の銃弾を浴びてこの世を去ってしまいます。
この凶報はすぐさま拡散され、日本のみならず現地の人々にも大きなショックを与えました。
なぜ、アフガンに尽くした善意の人、中村Dr.が撃たれてしまったのか……。
その本当の理由は明らかにされていませんが、そこには水を巡る利権問題があったのではないかと囁かれています。
中村Dr.が手掛けた用水路はヒンズークシ山脈に端を発するクナール河の流域に建設されました。この大河川はアフガン北東部の都市ジャララバードを流れるカブール川へと流れ込み、そのまま隣国パキスタンのインダス河へと繋がっています(図2)。
図2 地図中のカンダハールという地名は”アレキサンダー”の現地語読みで、かつてアレキサンダー大王がここまで遠征した名残だそうです。
この用水路の建設によって下流域にあたるインダス川の水量が減ると言う“噂”がパキスタン国内に広まり、その報復措置として中村Dr.が襲撃された……というお話です。
それが真実かどうかは分かりませんが、中村Dr.が活動していたアフガニスタンという国は、第二次世界大戦終結後の米ソ冷戦により極めて情勢が不安定な土地になってしまいました。
その当時、歴史的にもロシア帝国時代から南下政策を取ってきたソ連は、周辺国を共産主義化(赤化)することで全世界に影響力を行使していました。
アフガニスタンも同様で、親ソ連政権が樹立すると現地のイスラム勢力との間で激しい衝突が起こり、その結果としてソ連軍が軍事介入する事態となってしまいます。
圧倒的な大兵力を展開するソ連に対して、アメリカを始めとする西側陣営(と、一部の東側陣営。図3)は反政府勢力であるムジャヒディーンを影から支援しました。武器供与を受けたムジャヒディーンによるゲリラ戦術によって戦争は泥沼化し、侵攻から10年後の1989年、ソ連軍はアフガンから全面撤退しました。
図3 英陸軍(SAS)に所属していた兵士ギャズの実体験を元にした書籍。アフガン戦争についても触れられています。
その雰囲気は、ハリウッド俳優であるシルベスター・スタローン主演の映画『ランボー3 怒りのアフガン』(図4)でも知られるように、ランボーが草木の生えない山岳地帯を舞台にしてソ連特殊部隊(スペツナズ)を相手にゲリラ戦を展開する場面で何となく想像がつくかも知れません。
その後のアメリカのアフガニスタン統治は、先刻皆様のご承知のようにバイデンの放置により一層の混乱を引き起こすのみでした。
図4
大兵力を投入しても支配することが叶わなかった土地。それがアフガニスタンという国ですが、そこに暮らす人々の強さの理由を中村Dr.は著書『中村哲 思索と行動』のなかでこう述べていました。
「パシュトゥンは、古代から北西辺境州からアフガニスタンにかけて居住する精悍かつ謎の多い不思議な人々です。街中のバザールで足を組んで座っている茶店の主人が世界情勢に精通したインテリであったり、高笑いで冗談をとばす粗野な男が命懸けでアフガンゲリラに献身する外科医であったり、路上に座る薄汚れた老人がインド国民軍士官として日本軍と共に戦ったことがあると思い出話を持ち掛けてきたりと、雑踏の中でゆきかう精悍な人々がまるで、世界中をゆきかっているような錯覚にとらわれてしまうそうです。
彼らパシュトゥンを抜きにして北西辺境州を語る事はできず、銃と自由を愛し、自分たちの掟(パシュトワレイ)以外の何ものにも従わず、また支配もされない」と。
私は、アフガニスタンらしい濃い口髭をたくわえた患者を診ながら、つい中村Dr.の著書のその一節を思い出したのです。
そして、耳の不調の原因が解決したことで安心して笑顔を浮かべているパシュトゥンの患者に、どこか尊敬してやまない中村Dr.の過ごしたアフガンの空気を感じたのでした。