2024年9月 No.355
耳のお話シリーズ34
「あなたの耳は大丈夫?」12
~大沼直紀先生(筑波技術大学 名誉教授・元学長)の著書より~
私が以前、学校医を務めていた聴覚支援学校。その前身である宮城県立ろう学校の教諭としてお勤めだったのが大沼直紀先生(筑波技術大学 名誉教授)です。
その大沼先生による特別講演の記事『聴覚障害に携わる方々へのメッセージ』(3443通信No.329~331)に続きまして、ここでは大沼先生のご著書『あなたの耳は大丈夫?』より、耳の聞こえについてのお話を一部抜粋してご紹介させて頂きます。
「聴能=聞き取る能力」で聴力の低下は補える
▼言葉は脳で聞いている
一般に、音声は耳で聞くものと思われています。しかし、耳は単に音の刺激を脳に送る機能を果たしているだけなのです。
その証拠に、私たちは実にさまざまな音の洪水の中で暮らしているにも関わらず、ごく自然に自分に必要な情報だけを聞き分けて取り入れ、不要な情報は切り捨てています。
これを選択的聴取と呼ぶのですが、脳がある種のフィルターを持っていて、自分の聞きたい音とそうでない音を自動的により分けていると考えれば良いでしょう。
ガヤガヤうるさいところでも好きな人の声は耳に飛び込んでくる。ザワザワした喫茶店の中でも大事な打ち合わせの内容はきちんと聞き取れる。このように、耳には種々雑多な音がすべて入っているはずなのに、脳は自分の聞きたい情報だけをしっかりより分けてキャッチしているのです。
▼脳がだまされると正しく聞こえない
ひとつの実験があります。正常な聴力を持った人に、「ガ」と発音した口の動きをテレビ画面で見せながら、「バ」という音を聞かせるのです。
そして、何と聞こえたかと問うと、ほとんどの人が「ダ」と答えます。
画面を見ず、スピーカーから流れる音だけを聞けば、みんな正確に「バ」と聞き取れます。当然ですね。ところが、「バ」とは思えない口の形を同時に見せられると、音が正しく聞き取れなくなってしまうのです。
耳が正解である「バ」という音を聞き取っても、目が「バ」ではない「ガ」だと伝えるため脳に混乱が生じて、迷ったあげく「バ」でも「ガ」でもない「ダ」という音だと判断するのです。
これはマガーク効果(図19)と呼ばれている現象ですが、聴力が正常でも必ずしも正確に音を聞き取れるわけではないことを示す実験です。
図19
▼聴力は「脳力」で補える
逆にいえば、聴力がおとろえても予測、類推、想像力などをフルに活躍させれば、日常会話程度の聞き取りは不自由なく行なえるといえます。人間の脳には聴覚以外にも、情報をキャッチする能力がいくつかそなわっているのです。
音声情報があいまいでも、視覚、嗅覚、触覚などを総動員させたうえで、脳が適切な判断を下せば、正確な情報をキャッチすることができます。いわば、全身を集中させて音を聞き、なおかつ頭の中に何通りもの予測される解答を用意して待ち構え、ピタリと当てはまるものを選び出せばよいのです。
知識の蓄積はもちろん、判断力や推理力を鍛えて鋭敏にしておくことが要求されることですが、これを聴力のよし悪しとは別に、音声を聞き取る能力=聴能といいます。
たとえば「頑固親父=ガンコオヤジ」という言葉をテープに録音し、「コ」の部分にノイズをかけて聞こえなくしても、ほとんどの人は「ガンコオヤジ」と聞き取ります。
正確には「ガン…オヤジ」と聞こえているはずなのに、脳が自動的に音の欠落を修復してしまうため、こうなるのです。「頑固親父」という言葉は、多くの日本人にとって慣れ親しんだ単語です。音がひとつとんだくらいなら、想像力で容易に埋め合わせることができます。これが、音声の不備を脳が補なう能力、つまり聴能です。
図20
ところが、頑固親父という言葉を知らない場合、修復機能は働きません。この言葉を知らない人に「ガン…オヤジ」と聞かせると、癌の親父か? となり、意味が正しく伝わらなくなります。
▼トップダウン的な情報処理能力を養う
このように耳から入る音だけに判断を頼ったのでは、音声の欠落は修復されません。
耳から入った音を脳で修復しながら聞いていけば、音声の欠落した部分を補うことが可能です。これをトップダウン的な(頭からの指令による)情報処理といい、この能力を伸ばすことが聴能のアップにつながります。
そのためには知識と経験を積み重ねていくことと、めんどうがらずに会話や心の交流の機会を増やすことが大切です。同時に自分のほうからも絶えず刺激を発信し、相手に応えてもらうとよいでしょう。
▼意欲がよく聞かせる
聴能は、人とのコミュニケーションの中で培われます。年をとって聴能がおとろえたとき困るのは、耳がよく聞こえなくなることそのものよりも、耳がよく聞こえなくなったことによって言葉を使った人とのコミュニケーションを避けてしまうことにあります。
何度も聞き返すことで、相手には迷惑をかけると気をつかう。言葉を使って意志の疎通を図るのがめんどうになる。テレビが聞こえなくて音を大きくするとうるさがられるので、自分の部屋に引っ込んでしまう。
こうして人とのコミュニケーションから遠ざかっていくと、聴能は伸びなくなってしまいます。それどころか脳の細胞自体、活力を失ってボケてしまいかねません。意識的に人と関わり合う意欲を育てたいものです。
先に述べたように、人間は常に選択的に音を聞いています。漫然と聞き流すのではなく、聞こうという意志を持って音や言葉を聞く。こういった態度をとるだけで、実際の聴力以上の音を聞き取ることができるのです。
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