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2024年8月 No.354

 

魅惑のインド6日間の旅に参加しました3

院長 三好 彰

地図:インド(デリー、ジャイプール、アグラ)


 ひきつづきインドツアーレポをご紹介します。
 前回は、主にジャイプールの観光地であるアンベール城や古代の天文台ジャンタルマンタルなどを巡り、3つ目の訪問地であるアグラ市へ行きました。

世界遺産タージ・マハルを有するアグラ
 首都デリーを東西に分かつように流れるヤムナー川。その流れに沿った南東200kmほどの下流にアグラ市があります。この町の歴史はとても古く、インド叙事詩の『マハーバーラタ』によると紀元前3世紀の都市アグラバーナとして登場しています。16世紀にローディー朝の首都となって以来、デリーに遷都する17世紀半ばまでいくつかの王朝の首都として栄えました。
 タージ・マハルを始めとする壮大な歴史的建造物は、いずれもムガル帝国時代に建造されたものばかりです。

廃墟となった古代の都ファテープル・シークリー
 ムガル帝国に隆盛期を興した第3代皇帝のアクバルが、この地に住む聖者の予言によって男児(後の第4代皇帝)を得たことをきっかけに建設された首都が、このファテープル・シークリーです。
 3km×1kmの広大な土地を城壁で囲い、中央にあった丘に赤砂岩の宮廷やモスクを配置した壮麗な景観が誕生しました(図50)。

図50
 図50 一般謁見の間


 いくつもの列柱によって支えられた5層の建物は、かつて侍女たちが館として使用されたパンチ・マハル(図51)です。1階部分を支える84本の柱はその全てが違うデザインで造られており、その凝りように当時のムガル帝国の隆盛がみてとれます。

図51
 図51 貴賓謁見の間


 屋上に4つのドームが特徴のディワーネ・カースは貴賓謁見の間として使われ、その吹き抜け構造を支える柱には円状の装飾が施されており、その細かさには思わず息を呑んでしまいます(図52)

図52
 図52 立派な作りの柱


 微に入り細を穿つ造りの建物がひしめくこの都も、水不足というインフラ上の理由からわずか14年で遷都してしまったという歴史があります。斜陽に染まる廃都の情景は、なんとも物哀しい雰囲気を醸し出していました(図53)

図53
 図53 斜陽に陰るかつての都


 だからという事ではないと思いますが、この日、アグラ市内のホテルに宿泊した際にちょっとしたトラブルに見舞われました。なんど部屋の扉を開けるカードキー用の端末が開かなくなってしまいました。急遽、夜中に業者を呼んで対応して貰いましたが、まさか鍵まで古代製と言うわけではありませんよね……?(図54、55)

図54
 図54 カードキーが開かなくなり夜中に修理

図55
 図55 分解されたドアノブ


白亜の霊廟タージ・マハル
 まだむせ返るような暑さになる前の早朝(図56)、本日はツアーのハイライトと言えるインドで最も有名な建造物タージ・マハルを見学します。

図56
 図56 ホテルの窓から


 その前に立ち寄った貸衣装屋にて、女性陣はお色直しを行ないインド美人へと変身します(図57~59)

図57
 図57 貸衣装店にて

図58
 図58 いざタージマハルへ

図59
 図59 こちらは本物


 ヤムナー川のほとりに建てられたタージ・マハルは、世界一美しいお墓として世界中に認知されています。ただ意外なことに、この壮大なお墓は皇帝本人のために造られたお墓ではありません。ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの最愛の妃ムムターズ・マハルを偲ぶために、22年の歳月をかけて建設されました。その天文学的な費用は巨大なムガル帝国の国力が傾くほどと言われています。

 真偽は不明ですが、ジャハーン皇帝はタージ・マハルと対を成す黒の墓をヤムナー川の対岸に建てようと計画していたと言われています。残念ながらその夢は実現せず、彼の息子によって幽閉されたジャハーンは、死後、愛妃のお墓の横に安置されました。
 広大な面積の土地に建てられているせいか遠目ではその巨大さがいまいち実感できません。ですが、敷地の南にある高さ約30メートルのイーワーン形式の大楼門(図60、61)をくぐると、一面が芝生に覆われたペルシャ様式の庭園と、その中をまっすぐに伸びる水路が走っています。

図60
 図60 入口の大桜門

図61
 図61 門からのぞくタージ・マハル


 その水路の先には、ひときわ目を引く白亜のタージ・マハルが、威風堂々たる姿で佇んでいました(図62)。

図62
 図62 白亜の霊廟にふさわしい佇まい


 遠目では分かりませんが、その壁面には非常に細かい意匠の数々が見受けられます。これは当時では一流の設計技師や工匠を世界中からかき集められたという逸話からも、その力の入れようは計り知れます。
 また、現地を訪れてみて初めて知りましたが、ここを訪れる人の目を驚かす視覚効果さえも取り入れられています。

 まず敷地の正門である大楼門に入ると、門の出口一杯を占めるタージ・マハルが見えます。しかし進むごとにタージ・マハルが徐々に小さく、遠ざかっていくような錯覚を覚えます(図61)。
 また、霊廟を囲む四隅にはシンプルな作りの尖塔が4つ建てられています。これは視線を中心にある霊廟へと誘導する視覚効果を狙ったものと言われています。試しに写真を手に取って、周囲の尖塔を隠してみるとよく分かります。それまで壮大に見えていた印象が、なんだか少し物足りないように見えてきます。そこまで計算して造られたという事実に、もはや溜息しか出て来ません(図63)。

図63
 図63 庭園内は緑が豊富です


“大帝”の居城アグラ城
 次に向かったのはタージ・マハルの西1kmほどにあるアグラ城です(図64)。

図64
 図64 バスからカートに乗り換えてアグラ城へ


 この城を建てたムガル帝国第3代皇帝アクバルは、事故死した父の跡を継ぐためにわずか13歳で即位しました。ですが、その4年後には親政に移行しイスラム教徒ではない非ムスリムの人頭税を廃止するなど、ヒンドゥー教との融和を図りながらも北インドを平定。軍事や官僚制度の整備や土地制度や税制なとの国家の基礎となる分野に次々と着手し、ムガル帝国を全盛期へと導きました。
 その偉業を称えて“大帝”と呼び習わされたアクバルは、アグラに新都を建設して盤石な骨体体制の構築に寄与します。
 このアグラ城はもともと軍事要塞として建設されましたが、後年に白大理石を用いた大増築が行なわれたため宮殿へと格上げされました。

 現地を訪れると、植樹された丘を囲うように赤砂岩の城壁が目に入ります。

 入口であるアマル・スィン門(図65)を含んだエリアは三重の城壁構造となっており、門をくぐるとその先はいわゆる虎口(周囲から敵を狙えるエリア。図66)を成して周囲から侵入者を撃退する作りになっています。その壁の高さは20メートルを優に超え、軍事施設に相応しい物々しさが感じられます。

図65
 図65 アグラ城の正門・アマル・スィン門

図66
 図66 頑強な城壁


 足を進めると、広い中庭に赤々と映えるジャハーンギール宮殿(図67)があります。その名の通り、アクバルが息子であるジャハーンギールのために建てたもので、随所にイスラムとヒンドゥー建築を融合させた特徴があるそうです。

図67
 図67 赤・白の大理石が織りなす宮殿


 内部は、外観と打って変わって白大理石が用いられていますが、これはタージ・マハルを建設した5代皇帝ジャハーンによるものです(図68、69)。武骨な要塞から優美な宮殿へと生まれ変わらせた変遷に想いを馳せると、歴代皇帝を取り巻く時代背景が見えてくるようです(図70、71)。

図68
 図68 見事な作りの宮殿内

図69
 図69 細かな装飾が全面に施されています

図70
 図70 城の窓から見えるタージ・マハル

図71
 図71 離れていても目立ちます


 アグラ城を後にした私たちは、その日はアグラ市内にもう1泊し、翌日は帰国するため改めてデリーへと戻りました(図72、73)。

図72
 図72 デリー内を流れるヤムナー川

図73
 図73 河原には水牛が


 昼食は、地元では有名なタリ—料理のレストランでとりました(図74)。タリ—とは、大皿や盆皿という意味の言葉で、いくつかの料理が組み合わさって提供されるメニューの総称です。
 日本でも、本場風のカレー屋さんにいくといくつかのカレーの小皿とナンが提供されますので、イメージしやすいかと思います。
食後は、インドでは最後のショッピングタイムです。女性陣は我先にとお買い物をしに駆け出していきました(図75、76)。

図74
 図74 帰国前のランチ。これぞインドカレー!

図75
 図75 女性陣のお買い物

図76
 図76 ここにもユニクロが!


 特にめぼしい買い物は済ませていた私(図77)は、とても濃い内容だったインド訪問の思い出に浸りながら、待ち時間いっぱいまで買い物を楽しんだメンバーが来るのを待っていました。
 来年はぜひ、南インドを訪れてみたいです。

図77
 図77 ドライブインで購入したドイツ語版『星の王子様』。文中にはインド象(?)が登場しています。

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