2024年6月 No.352
魅惑のインド6日間の旅に参加しました 1
院長 三好 彰
秋葉代議士(左)シビ大使(中)と駐日インド大使館にて(2024年2月16日)
新型コロナウイルスによる渡航制限がようやく落ち着きを見せた2024年5月、阪急交通社主催の『魅惑のインド6日間の旅』に参加してきました。
私がインドに興味を抱いたエピソードは3443通信 No.349『インド大使館を表敬訪問しました』とNo.350『A・M・ナイルさんとパール判事のエピソード』にて触れていますが、きっかけは今から50年前にまでさかのぼります。
日本初のインド料理専門店ナイルレストランを創業し、日本初の『カレー粉』を開発したA・M・ナイルさんは、先の大戦までイギリスの支配下にあったインドの独立運動に参加し、大東亜戦争の真っ最中の日本軍とともにインド開放に従事したという歴史的な経緯がありました。
私は、1974年に初めて銀座のナイルレストランを訪れナイルさんと出会い、彼の活動についての話や自著『知られざるインド独立闘争』を読んで感銘を受け、それ以来インドへの想いを50年間にわたって抱き続けてきました。
その念願が叶って、今回初めてのインド訪問となりました。
本ツアーの主な訪問地はデリー、ジャイプール、アグラの3都市(地図)で、インド旅行の金字塔ともいえるこのエリアはゴールデン・トライアングルとも呼ばれています。
羽田空港から、一路ニューデリーへ
ツアー一行を乗せた飛行機は羽田空港を離れ、中国上空を横断して行きます。やがて見えてくるヒマラヤ造山帯の荒々しい山岳地帯を超えると、一転して緑深いジャングルが視界に広がります。
ミャンマー北部に広がる広大なジャングル地帯です。
機内の航路情報を見ると、そこにはインパールという都市の名前が表示されていました(図1)。私はふと、かつて日本軍による“史上最悪の作戦”と評された戦いを思い起こしました。
図1 インパールのそばを通ります
無謀の代名詞“インパール作戦”
時は第二次世界大戦(大東亜戦争)、日本は中国大陸においてはアメリカなどが支援する蒋介石の中華民国とも戦争状態にありました。
アメリカやイギリスなどは、中国大陸における日本の覇権確立を阻止するために中国南方のビルマ(現在のミャンマー)のジャングル地帯から、中華民国への物資輸送を繰り返し実施しました。いわゆる”援蒋ルート”と呼ばれた一大補給路です。
米英の支援を受けた中華民国は粘り強い抵抗を続けたため、日本軍は多くの地上戦力を中国大陸に展開し続けねばならず、それ以外の戦線への十分な兵力を展開できないというジレンマに陥ってしまいます。
そこで日本軍は膠着した戦局を打開すべく、ビルマ及びインド方面へ進軍を続けました。
当時、インドはイギリス支配下にありましたが、インド国内では長年にわたる植民地支配からの独立を叫ぶ声が日増しに高まっていました。もしインドで独立運動が本格化すれば、イギリスはインド独立と日本軍という両面作戦を強いられることになり、日本軍はより有利に戦いを進められる可能性がありました。
日本帝国陸軍ビルマ方面軍の牟田口廉也中将は、そうした大本営の意向を受けて東インドの要衝であるインパール攻略作戦を実施します。
ですが、アジア全域にわたって戦線を広げてしまった影響で兵站線が伸びきってしまい、補給に難を来たした日本軍は、イギリス軍の激しい抵抗により敢え無く敗退してしまいます。
それから日本軍には、数々の苦難が襲い掛かります。
追撃してくるイギリス軍の猛攻、容赦なく体力を奪っていくジャングル、物資枯渇による飢えと病によって、日本軍の多くの兵士たちは次々と命を落としてしまいます。
その様相は悲惨極まりなく、日本軍の退却した後には遺体の道標がえんえんと続く“白骨街道”と化したそうです。
大戦後、インドやアジア各国は悲願であった独立を成し遂げます。決して理想論だけで語れない戦争の真実ではありますが、当時の日本がナイルさんや中村屋のビハリ・ボースそしてチャンドラ・ボースと共にアジア独立を加速させた一つのきっかけになったことは事実です。
私の母方の祖父である高木義人(たかぎ よしと)が、陸軍第2師団(宮城)の師団長(図2)であったこともあり、私はとっても日本軍の歴史について拘っています。
図2 高木義人陸軍中将
当時の日本軍が辿ったルートを空から巡り、ガンジス川(図3)を越えた飛行機は、首都デリーへと到着します(図4)。
図3 ガンジス川の上を通ります
図4 到着です
街中を専用バスで移動していると、多くの車が片側4車線道路をまるで生き物のように行き交っています。中国でもそうでしたが、急速に車社会となったインドにおいても交通事情は社会問題となっています。
日本と比べると規範意識が緩いため、割り込みや逆走は日常茶飯事のようです。そのため信号のある交差点でも、赤信号に関わらず無視する車も見られるほど。歩きスマホなどしようものなら、あっという間に車に跳ねられてしまうかも知れません。
そんな街中には、今でも英国の上流階級で盛んなクリケットを楽しむ人たち(図5、6)や、聖なる動物とされる牛が自由に道路を闊歩(図7)したり、洗車サービスを呼びかける人(図8)がいたりと、雑然とした中でも独特の熱気を感じさせる情景が広がっていました。
図5 クリケットが盛んです
図6 不思議の国のアリスより、ハートの女王とクリケットをするアリス
図7 道には牛が……(インドでは神聖な動物)
図8 道行く車を掃除してチップをもらいます
「返して欲しい……」
それまで街の説明をしてくれていたガイドさん(図9)の顔が、やや厳しいものに変わります。
「私は、イギリス人の観光客に言うんですよ。むかしイギリスがインドから盗んでいった物を全て返せ!ってね」と言いました。
そこで私は―—、
「エジプトは返させましたよね。大英博物館から」
と伝えました。
図9 お世話になったガイドさん
その時のガイドさんの何とも言えない表情を、私はいまでも覚えています。
先に述べたようにかつて日本軍は東インド(今はバングラデシュ)のインパールまで攻め込みインド独立運動を支援したという経緯があります。その歴史がいまに繋がっているのだと強く思いを新たにしました。
興亡を繰り返した歴史の都デリー
近代において非常に変化の大きかった都市の一つでもあるデリーは、歴史的には8世紀以降にその興りが残されています。古代王朝の歴代首都として発展と破壊が繰り返されて来ました。
特に変化の激しい時は、1206年から1526年の約300年間に5つの王朝が相次いで興亡したことからも、デリーの地政学的な重要性は感じ取れます。
イギリス支配下にあった1911年、インド西部のコルコタからデリーに行政府が移されたのに伴い、デリー市街の南側に新たに建設されたのがこのニューデリーの始まりです。イギリスの建築家エドウィン・ラッチェンスの手によって都市計画が構築され、整然とした区画と街路樹のある沿道や庭園などのイギリス植民地様式が多く取り入れられました。
現在、デリー都市圏の人口は3,000万人を超えており、インド最大の都市として発展を続けています。
世界遺産クトゥブ・ミナール
1993年に世界遺産に登録されたクトゥブ・ミナールは、12世紀にゴール朝(現在のアフガニスタン)に仕えていたクトゥブッディーン・アイバクがデリーを占領し、インド初のイスラム系王朝である奴隷王朝がその始まりとされています。
もともとあった城塞をベースにモスクが増築されたため、その外観にはヒンドゥー様式とイスラム様式が混在する様式になっています。
その尖塔(ミーナールもしくはミナレット。図10、11)は5層72.5メートルの高さを誇り、塔としてはインドで最も高いとされています。もともと100メートルほどの高さがあったそうですが、過去の地震や落雷などで塔の先端が崩れたため、現在の高さになっているそうです。
図10 インドで一番高い尖塔であるクトゥブ・ミーナール
図11 どっちが大きい?
デリー観光のハイライトの一つで、森に囲まれた遺跡群の中にいると、まるでその当時にタイムスリップしたかのような感覚になってしまいます(図12~17)。
図12 未完のアラーイー・ミーナール
図13 ハト
図14 ねむの木
図15 リス
図16 クトゥブ・ミーナールの石柱
図17 デリー市街の南半分はイエガラスが多い。イスラムの住民が多く、豚肉を食べる食習慣からか……
1500年以上錆びない“デリーの鉄柱”
遺跡内を歩いていると、一本の鉄柱が突き立っているのが目に映りました。これは“デリーの鉄柱”(図18)と呼ばれる重さ10トンにもなる柱で、表面にサンスクリット語の碑文が刻まれています。
作られたのは紀元415年のグプタ朝と言われており、現在まで1500年以上もの年月を風雨に晒されてきたにも関わらず錆が表面にしか浮いていないという不思議な柱とされています。これこそ英霊の加護のなせる業……と考えたくもなりますが、純鉄(純度99.72%)の精製過程で表面にリン酸化合物の被膜が出来たことで腐食耐性が高まったのがその理由と言われています。それにしても1500年以上も朽ちることなく現存するというのは凄いことですね。
図18 1500年以上も錆びていない“デリーの鉄柱”
ムガル帝国皇帝の墓“フマユーン廟”
ムガル朝第2代皇帝フマユーンのお墓であるフマユーン廟(図19)は、彼の死後、妻であり王妃のハージ・ベグムが9年の歳月をかけて建設しました。四つに分けた庭園の中央に墓廟があり、上空から見ると真四角の庭園とのど真ん中にドームが配されているのが特徴的で、ムガル様式と呼ばれる建築法の礎となったスタイルです。この様式は墓廟の建設から100年後のタージ・マハルへと受け継がれたそうです。
図19 ムガル朝第2代皇帝の墓廟“フマユーン廟”
どの方角から見ても完璧なシンメトリーで構成され、夕日に染まるフマユーン廟の美しさはまるで絵画のようだと、訪れた人の目を引き付けます(図20、21)。インド・イスラム建築の最高傑作として1993年に世界遺産登録がなされました。
ドームにある棺は模棺(図22、23)で、実際の棺はその地下に妻と息子の遺体と共にいまも安置されているそうです。
図20 入口の門(内側から撮影)
図21 シンメトリーな外観
図22 墓廟の内部
図23 王の模棺
デリー観光を終えた私たちは、2つ目の訪問地であるジャイプールへと向かいました(図24)
図24 夕暮れのジャイプール
つづく
続編「魅惑のインド6日間の旅 2」(3443通信 No.353)