3443通信3443 News

2024年6月 No.352

 

『ある春のための上映会』鑑賞レポ

秘書課 菅野 瞳 

図01


 去る2024年3月18日(月)、仙台市太白区長町にある太白区文化センター楽楽楽ホールにて上映された映画を鑑賞して来ました。その映画とは『ある春のための上映会~石巻市大川から震災を描いて~』です。
 この映画の上映を知ることになったのは、2月下旬に南三陸に出向き震災語り部バスツアーに参加したことがきっかけでした。頂いた映画のパンフレットには、中学生かな? と思しき制服姿の女の子が写っています。裏面には作品紹介があり、鑑賞前に少し目を通しました。

あらすじ
 この映画は、東日本大震災の津波により妹さんを亡くされた、14歳の少女にスポットを当てた作品のようです。そしてまた、ちょうど1週間前にあたる3月11日に、“大川竹あかり”(3443通信 No.339)が行われた石巻市大川地区がこの作品の舞台になっています。
 この映画は、震災から1カ月余が過ぎた時分を取り上げた『春を重ねて』という作品、そして震災から8年半が過ぎた頃を描いた『あなたの瞳に話せたら』という作品の2本立ての構成になっています。

 流し読みだけをした作品紹介文でしたが、私のアンテナがピンと立ったことは間違いありません。映画館で一定期間上映される作品とは違い、この作品の上映会は、たった一日一度限り。映画の上映後には、この作品の監督と脚本を兼務された佐藤そのみさんが登壇され、直接お話しを伺えるそうです。

 では、スクリーン真正面の席もしっかり確保したところで、監督が、温めに温めぬいていたという作品の鑑賞に浸るとしましょう。

ep.1『春をかさねて』
 この作品は震災当時、大川中学校の2年生だった佐藤そのみ監督ご自身の経験を基にしたドキュメンタリー映画です。大川小学校を襲った津波により、小学6年生だった妹さんを亡くされ、連日のように追われるマスコミの取材に対し、いつの日からか背負ってしまった“妹を失っても前を向いて頑張る中学生”という肩書きに、思い悩んでしまいます。
 自身を取り囲む知人や友人、震災ボランティアの方々、皆が口々に彼女をしっかり者の中学生だと言い、その当時の彼女は、亡くなってしまった妹の分まで悔いのないよう精一杯生きようと、それだけを想って過ごしていたそうです。

 彼女には、同じように津波で妹を失ってしまった親友がいます。自身の気持ちと同じ想いであろうと思っていた親友が、ある時ボランティアとして大川地区に来ていた青年に、恋心を抱きます。その告白に、何故だか無性に嫌悪感を抱いた主人公は、ついその思いを吐露したことで、親友との関係に亀裂が生じてしまいます。

 後に親友との関係は、共に妹を失ってしまった場所である大川小学校の校舎で、互いが抱えていたわだかまりが解けて「私たちはもっと好きに生きていいんだ! 私の、自分の人生を生きよう!」と心に決め、最後は希望を感じさせる内容になっています。

 この場面に於いて、互いの妹さんを亡くされたその場所で、両者の想いが通じ合ったことに、私はとても熱いものを感じました。二人が築き上げてきた関係は、そんなもろいものではないでしょう、お姉ちゃん!と、きっとお互いの妹さんが、二人の仲を繋いでくれたのではないのかと、そう思いました。

 大川小学校が、震災遺構として保存が決定したのは、2016年3月。この作品が撮影されたのは、2019年3月です。ということは、大川小学校が震災遺構として保存が決定した後に、この作品のクライマックスシーンが撮影されたことになります。

 震災遺構となっている小学校の中で、映画の撮影が許可されるものなのか……? よくロケが行えたものだと驚嘆したと同時に、それが何故可能だったのか…・・・私はとても気になりました。
 その答えは、一言で簡単に言うなれば、大川地区の皆さんの全面協力があったからこそなのです。大川で生まれ大川で育ち、この大好きな大川を、いつか映画にしたいと仰っていた佐藤監督の想いを、しっかり受け止めてくださった、大川の皆さんがいらしたからこその作品なのでした。その事実に、ひとしきりの感動を覚え、若干疲弊した私でしたが、ここで10分の休憩を挟んでの小休止。


 続いては震災から8年半が過ぎ、大川小学校で友人や家族を亡くした当時の子どもたちは、あれから何を感じ、どのように生きてきたのかを描いた作品『あなたの瞳に話せたら』の上映にうつります。

ep.2『あなたの瞳に話せたら』
 この作品は、佐藤監督を筆頭に、監督から声を掛けられたそれぞれが、故人に宛てた手紙を織り交ぜながら、各人が独自の人生観を持ち、それを貫き通して生きる姿を描いた作品になっています。大川に住み続ける人、大川から離れた人。大切な人を失った記憶を、自身の言葉にして語れる人と、語らない、または語ることが出来ない人。今それぞれの人生を生きる人々と対話をするかたちで、故人に手紙を綴ります。

 皆さんは、震災のあったあの日に、津波にのまれながらも助かった少年がいたことを覚えているでしょうか? マスコミには“奇跡の少年”として取り上げられました。

 彼の名は、只野哲也さんと言います。この作品に登場した彼を見て、私はすぐにピンときました。私が以前鑑賞し、3443通信No.343に記事を認めた『生きる』 という、大川小学校の津波裁判を描いた映画に、原告として名を連ねていた只野英昭さんのご子息でした。

 ―—奇跡の少年などと呼ばれたくなかった。

 毎年訪れるあの日になると、報道陣からの質問攻めに遭い、

“二度と同じことが起きないように”
“亡くなった友達の分も一生懸命生きる”
“校舎を残して未来の命を守りたい”。

 この言葉を何度となく繰り返し口にする自分が、本心でそれを言っているのか、本当に自分自身が抱く想いなのか、分からなくなっていったそうです。

 正解のない、正解の分からない返答をし続けて苦しんだ彼は、こんな半端な気持ちのままで大川に関わるのは、自身にも故人にも失礼だと気持ちを切り替え、地元・大川と距離を置くことを決断します。

 そんな彼が、再び大川の地に戻り、大川に関わろうと思えたきっかけがあったのだそうです。
 それは心の支えになってくれた心理カウンセラーのおかげであり、他県で防災に取り組む若者たちと交流したことも大きく影響しました。

 また広島にある世界遺産・原爆ドームを訪れ、現地で被爆者から聞いた言葉の重みに、自分が口を閉ざしてしまったら津波にのまれた経験を誰が伝えるのか……、と気付かされたのだと仰っていました。

 皆に“てっちゃん”と呼ばれ親しまれる只野さんは、今は大川地域でコミュニティを作り、少しずつではあるものの、自分のやりたいことに近づいてるのだという実感があるのだそうです。何時も人の目を気にして自分を偽り、周りに過剰な気遣いをする自分が、嫌で嫌でたまらないという心の叫びを率直に手紙に記したことで、亡くなった同級生に向けた手紙であると同時に、自身を鼓舞する手紙にもなり「この映画への出演が自身の転機になりました」と、監督への感謝の言葉を述べていました。

トークセッションと制作秘話
 上映後に行われたトークセッションでは、佐藤監督の揺れ動く映画への想いが語られました。

 ——私の育ったこの大川で、絶対に映画が撮りたい!!

 この気持ちが芽生え、そして自身の夢になったのが、中学1年生の頃だったそうです。
 自然豊かで地域住民の繋がりは密接、通学路を歩いていれば誰かしらが親切に声をかけてくれる、まるで楽園のような環境で伸び伸びと育った監督は、いつの日にかこの情景を残したいと思うようになっていた時分……。

 その2年後の2011年に、愛する故郷が東日本大震災により激変しました。

 慣れ親しんだ場所は更地と化し、友人とは離れ離れになり、連日新聞に掲載される死亡確認者欄には見知った人達の名前が並び、その上、監督の母校でもある大川小学校で起きた事故は、すぐに受け入れられるものではありませんでした。ですが、いつの日からかご自身が知る美しい故郷を、映画に写すことは叶わないけれど、大好きな故郷で震災の映画を撮ろうという新しい夢が生まれたのだそうです。

 題材は決まったものの、裁判にまで発展した大川小学校事故を描くことは、無論容易なことではなく、幾度にも渡る企画の改変を経てやっとの思いで制作した映画なのだそうです。

 ところが、いざ映画が完成しこれを世の中に発表すると、津波で妹を失った大川小学校の遺族が映画を撮った。津波の遺族と言う肩書きから、離れられなくなるであろうことに気付いてしまい、佐藤監督はほぼ5年もの間、ご自身の意思によりこの作品をお蔵入りにしていたそうです。
 そして昨今、世間をあれだけ騒がせた新型コロナウィルス感染症が落ち着きを見せ始め、監督の力作を知る方々から「あの映画はどうなったの?」と問われることが多くなり、徐々に徐々に鑑賞の機会を増やしていったのだそうです。

 作品を見て頂いた方々からは賞賛の声が寄せられ、映画上映会後に行なうトークセッションの場で、ご自身の揺れ動く想いを語っているうちに、この作品が自分から離れていく感覚に気持ちが軽やかになり心地良さを感じたのだと仰っていました。
 この作品は、紆余曲折を経て、長い冬眠を終え、ようやっと世に出ることになりました。このトークセッションがなければ知り得なかった、佐藤監督の複雑な心模様が、監督の口から直接語られ、この作品に更に深みが増したことは、言うまでもないと思います。

「震災直後の大川は、私が知る大川とは似ても似つかない程に激変したけれど、そんな大川も嫌いではないです。大川の川の色・山の色・日差しの暖かさ・空気の爽やかさ……変わってしまったようで、何も変わっていないんですよ。」と、故郷を思い浮かべながら仰ったであろう、佐藤監督の言葉が、帰路に就いても尚心に響いていました。

 東日本大震災を語る上で、また貴重な作品に出合えました。

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