2024年4月 No.350
インドシリーズ2
A・M・ナイルさんとパール判事のエピソード
先月号の3443通信 No.349にて、私が後援会長を務める衆議院議員 秋葉賢也 代議士とともに駐日インド大使館(東京)を表敬訪問した記事「インド大使館を表敬訪問しました」をご紹介しました(図1)。
図1
私がインドに興味を抱くきっかけとなったのは、1974年、A・M・ナイルさんの創業した銀座ナイルレストランを訪れたことに端を発します。それから50年間お店に通い続けたことが、インド大使館への表敬訪問に繋がりました。
今回は、そのA・M・ナイルさんと東京裁判で有名となったパール判事のエピソードについて触れたいと思います。
A・M・ナイルさんとは?
A・M・ナイルさんは、当時イギリスの植民地化にあった祖国インドの独立を願い、高校在学中からインド独立運動やカースト差別批判運動に参加。その後、日本の京都帝国大学工学部に留学し、インド独立運動家ラス・ビハリ・ボース氏(中村屋のカレーで有名)と出会い独立運動家として活動していきます。
戦後、ナイルさんは極東国際軍事裁判(東京裁判)に参加するインド代表判事のラダ・ビノード・パール氏(パール判事)の通訳を務められました。
そして1947年8月にインドが独立を迎えますが、ナイル氏は日本に住み続けることを選ばれ、1949年に日本初のインド料理専門店ナイルレストランを開業されます。
以下、ナイルさんの著書『知られざるインド独立闘争』(図2)より一部抜粋。
P.419-430「パール判事との出会い」(PDF)
図2
最後に、以下『インド国民軍を支えた日本人たち』より一部抜粋します。
日本の敗戦とインド独立
昭和20年8月、日本は敗戦。それでも、チャンドラ・ボースには不屈の闘志があり、今度はソ連の援助を受けて独立運動を続行しようと考えた。ところが、途中不幸にも飛行機事故で死亡してしまう。インド国民軍の将兵たちは、英軍の捕虜となった。
英国は、インド国民軍の元将兵たちを「英国王への反逆」容疑で裁判にかけた。しかし、これが裏目に出て、インド独立への動きは一気に加速する。インド国民会議派は、「インド国民軍将兵はインド独立のために戦った英雄」として即時釈放を要求。デリー、カルカッタ、ラホール、マドラス等の主要都市では次々と抗議集会が開かれた。過激さを増すデモ隊にイギリス官憲が機関銃掃射を行ったため、人々は暴徒化し、翌年には反乱が英印軍内部にまで及んだ。そして、これら一連の事件によって英国はインドの独立を認めざるを得なくなるのである。
1947年8月15日、ついにインドは独立を勝ち取った。
一方、連合軍の占領下におかれた日本は、昭和26年(1951)、サンフランシスコ講和条約を締結し、ようやく国際社会に復帰する。このときインドは、サ条約が「日本に対して屈辱的である」としてその締結を拒否し、翌27年に、より友好的な表現の日印平和条約を締結している。そして、この条約によって日本への賠償請求をすべて放棄するのである。
今日の日印の強い絆は、本書に書かれているインド独立運動を支えた多くの日本人たち、また、インパール作戦で命を落とされたあまたの日本軍人軍属の方々の尊い犠牲の上にあることを、我々は決して忘れてはなるまい。
図3
図4
図5
日本最古のインド料理専門店<ナイルレストラン>
https://www.ginza-nair.com/(公式)