2024年1月 No.347
このたび宮城耳鼻会報誌(88号)に『三好 彰:アレルギー疫学調査の思い出. 宮耳鼻88; 2023』が掲載されました。
エッセイ『アレルギー疫学調査の思い出』
(宮城耳鼻会報 88号)
三好 彰(三好耳鼻咽喉科クリニック)
はじめに
1963年、日光においてスギ花粉症が発見されました。その後、戦後30年となる1979年にスギ花粉の飛散がピークを迎え、ついには日本人の『国民病』という名誉ある名前をつけられるに至りました。
たしかに著者が医学部を卒業する1977年までは、日本における花粉症の原因はブタクサであって、スギ花粉は話題にもならなかったものです。
79年のスギ花粉増加が、「大気汚染によるスギ花粉症増加説」という慈恵医大の捏造問題(『アレルギー性鼻炎と大気汚染』 宮城耳鼻会報 No.82)の原因となったことは著者が証明しましたけれど、これら一連のアレルギー調査の一部を引き続き紹介したいと思います。
厳密な調査
耳鼻咽喉科領域の何らかの病気についてその実態を正確に知るためには、耳鼻科外来を受診する患者だけを診ていても何も分かりません。
やはり計画的なフィールド・ワーク、つまりある一定の行政単位(市・町・村など)に住む一定の年齢層(子ども・大人・老人など)全員に対して一定の方法で一定の期間、調査のなされる必要があります。
スギ花粉症などアレルギー性鼻炎に対してもそれは同じで、日本なり世界なりのどこかの町などで、例えば学生など限定された対象全員について複数年の調査が必要です。
著者らはこれまで日本では白老町・栗山村で、中国では黎里鎮・宜興市・南京医大・湖北医大・昆明医大・西安医大・中山医大(図1)などで上記の条件を満たす調査を実施して来ました。著者らの一連の調査以外に、こうした厳密なアレルギー学的疫学調査は今もなお、一件も行なわれていません。
ここでは白老町を例にとって、その具体的な実施方法について説明を加えます。
白老町
白老町(図2)と著者とのご縁は1968年、明治100年に遡ります。
その年、白老町へ観光に行った仙台一高の同級生が白老町に三好という人の記録が残っている、というのです。
早速、自宅へ戻った著者が祖母にその話をしたところ、5代前の先祖・三好監物が白老町に行っていること、白老にはその監物に関わる言い伝えが残っていることを知らされました。
丁度明治100年です。仙台市でもその白老町でもそれを記念した行事が様々企画され、著者の自宅にも問い合わせが来ました。
その結果、幕末の当時ロシアの南下が活発になり、幕府が北方警備のために東北地方の各藩に蝦夷地警備を命じたこと。仙台藩では三好監物が責任者として1856年に白老に派遣され、現在の白老町の礎を作ったこと(図3~5)、監物は未来が予見できた人物であったために幕末の佐幕派中心の仙台藩にあって勤皇派を貫き、1868年明治維新直前に自刃させられたこと、が判りました(図6~8)。
白老町からは、町の100周年を記念するために著者の自宅の資料を調査する目的で学芸員が訪れ、白老町には三好監物の建てた仙台藩陣屋跡の記念碑が建ち、更に時を経て記念館が出来ました(図9)。
記念館の落成記念の1988年、著者は白老町に招待され監物の5代目の子孫として行事に参加しました。そしてその際、白老町には耳鼻科医がおらず、毎年の耳鼻科健診が行なわれていないことを知りました。
著者は早速町長に耳鼻科健診の実施を申し入れ、その年の秋から学校健診が開始されることになりました。当初は町の児童の数も多く、小1・小4・中1(6歳、9歳、12歳)を各々健診し、3年間で全員をチェックする計画となりました。
ただの健診ではもったいない。学問的に意義のある事はできないものか。そう考えた著者は健診に際してスクラッチテストを実施することを条件としました。
そして1989年から当初の条件を満たした完全な方式でのアレルギー調査が始まったのです。
健診の実際
1989年当初は児童数が小1・小4・中1で1,000名近くいたので、効率的な健診が実施できるよう以下の方式を考えました(アレルギーの臨床14(10), 1994より)。
実施方法
医師2名の指示のもとに、看護師2名と記録・連絡を行う事務担当者6名とが、チームを組みます。看護師と事務担当者とは、ローテーションでメンバーの変更することがありますが、耳鼻科的視診担当の医師は著者一人が担当しました。
健診の実際は、次の通りとなりました。
アンケート
健診に先立ち、自覚症状に関するアンケート(図10)を配布・回収します。アンケートの配布・回収の時期は、健診の約1カ月前です。
健診の手順
健診当日、図11(現地教育委員会に送付し、実地に健診に参加してもらったときの模式図)に示す順路を学童は通過し、最初にティンパノメトリー検査を受けます。学童本人は、この検査結果用紙を次に視診担当の耳鼻科医に提示します。耳鼻科医はその検査結果用紙を参考に耳鼻科的視診を行い、臨床診断名を記録担当者に告げます。学童は視診終了後、スクラッチテスト施行用テーブルにてテストを受け、その後待機用の机に向かうことになります。スクラッチテストの判定は、再びテスト施行用テーブルにて行います。図12、13は、その実行風景全景の記録写真です。
スクラッチテスト
抗原(以下アレルゲン)は鳥居薬品製のスクラッチ用アレルゲンエキスを用い、ハウスダスト(HDと略称)・ヤケヒョウヒダニ(ダニと略称)・スギ花粉(スギと略称)および50%グリセリン液(対照液と略称)によるスクラッチテストを行いました。判定は、日本アレルギー学会スクラッチテスト判定基準に従い、20分後に膨疹が5mm以上もしくは紅斑が15mm以上となったものを陽性としました。なお、いずれも対照液の2倍以下のものは省きました。
健診の実際
健診時学童の流れに滞りなく、白老町では各年1,000例近い学童の健診を実質丸2日(初日の午後・2日目の午前午後・3日目の午前)で終了しました。
先ず健診前に自覚症状アンケートを配布・回収します。アンケート中の各症状の有無は「なし、まれに」を(-)、「時々、いつも」を(+)として判定しました。
アレルギー性鼻炎との診断は、問診票、スクラッチ・テスト、著者による視診の3者を総合して決定しました。
健診当日の流れは以下の如くとなります(図11)。
参考までに、栃木県栗山村(図14、現在は日光市)と南京医科大学1年生(図15)と江蘇省呉江市黎里鎮全体の小学校1年生の調査光景(図16)、そしてチベットのラサ市の小学校1年生の光景です(図17)。
※國井先生については、エッセイ「ブラジルでの花粉症(?)調査」(3443通信 No.344)をご参照ください。
調査結果
1989年以前には全く知られていなかったいくつかの興味深い事実が判明しました。
1.アレルギー性鼻炎増加の大気汚染説
先に本欄(宮城耳鼻会報 No.82)において述べた如く、この説は小泉らの誤解によるものと、1979年にスギ花粉症が激増したことによる慈恵医大論文の捏造です。
著者の真実解明により、当時の石原慎太郎都知事は都内のディーゼル規制を中止、岸田文雄首相は無花粉スギの植樹を命じ、著者は慈恵医大からつけ狙われる身となりました(先祖に良く似ている?)。
2.同一児童のアレルギー反応の頻度変化
著者らの論文以前には、アレルギーの陽性率が同一人において変化することは、全く知られていませんでした。
しかし著者らは同一児童において成長に伴い陽性率の上昇することを明らかにし、スギ花粉などアレルゲンへの接触頻度に起因してくるであろうことを述べました(表1、図18)。加えて同一児童でも成長するに伴い逆にアレルゲンへの反応の陰性化することをも見出しました(表1の赤枠)。原因物質への接触頻度の増加や減少が反応変化の原因と著者は考えています。
なお、これらの図表に示したのは、白老町調査例のべ5,728例のうち、小1~中1の間にたった一度でも何の疾患が原因であっても、医療機関を受診したことのある5,394症例を省いた334例(図18上)、そして小1以前に受診歴のある5,515症例を省いた213例です(図18下)。
なお表1は全体ではなく、具体例を示すためにサンプルとして1/3の症例のみ示しました。
3.アレルギーの頻度には性差が存在
幼児から老人まで全年齢層にわたる調査は実施が困難で、初めの3年間つまり89~91年の白老町の小1・小4・中1(2,677例)の分析ですが、図19のアレルギー性鼻炎の頻度そして図20のスクラッチ・テスト陽性率には明確な性差が存在します。6~7歳の小1でも性差は明確で、思春期以前にこのような性差が認められたのは意外でした。
4.鼻出血の頻度とアレルギーの頻度
これまでにも、アレルギーと鼻出血との相関については指摘されており、図21の動作がその原因と推測されて来ました。しかし正確な統計を示した報告はこれまでになく、著者らは分析を試みました。
アンケートにて鼻出血ありと判断されたのは、2,677例中793例の29.6%でした。また男子1,300例中443例の34.1%そして女子1,377例中350例の25.4%であり、有意差をもって男子の鼻出血の頻度が高くなりました。
学年別に鼻出血を見ると、小1で779例中234例の30.0%、小4で896例中276例の30.8%、中1で1,002例中283例の28.2%で、3者間に有意差を認めませんでした。
各学年における鼻出血の性差は、次のような結果を示しました。すなわち小1では、男子381例中135例の35.4%と女子398例中99例の24.9%で、男子の頻度が有意に高くなりました。小4では、男子412例中136例の33.0%と女子484例中140例の28.9%で、両者の間に有意差を認めませんでした。中1では、男子507例中172例の33.9%と女子495例中111例の22.4%で、男子の頻度が有意に高くなりました。
鼻出血とスクラッチテスト陽性率(図22)
スクラッチテストのアレルゲン3種のうち1種以上陽性(以下1種以上陽性)率は、2,677例中728例の27.2%でした。この1種以上陽性率は、男子1,300例中559例の43.0%であり女子1,377例中400例の29.0%で、男子の陽性率が有意に高いことが判りました。さらに1種以上陽性率は、学年の上になるほど上昇する傾向を認めました。
鼻出血(+)の793例中スクラッチテストの1種以上陽性率は337例(陽性率42.5%)で、鼻出血(-)の1,884例中1種以上陽性率は622例(33.0%)で、前者の陽性率が有意に高いことが判りました。やはり図21の動作が関係しているように見受けられます。
男子で鼻出血(+)の443例中1種以上陽性例は208例(47.0%)で、鼻出血(-)の857例中1種以上陽性例は351例(41.0%)で、前者の陽性率が有意に高くなりました。
女子で鼻出血(+)の350例中1種以上陽性例は129例(36.9%)で、鼻出血(-)の1,027例中1種以上陽性例は271例(26.4%)で前者の陽性率が有意に高いことが判りました。
男子・女子とも、高学年になるほど鼻出血の頻度とスクラッチテスト陽性率との相関は、少なくなる傾向が見られました。
鼻出血とアレルギーの頻度との間には、相関のあることが判りましたが、学年の上がるほど差の少なくなること及び小1で男子に関連の強いことについてはその意味を判断しかねています。
おわりに
1) 調査に関して
著者らの地道な徹底した調査で、花粉症始めアレルギー性鼻炎に関してそれまで未知だった事実がいくつか明らかになりました。しかし調査を更に進展させることにより、ますます謎の深まって行った事項もあります。
図23を見て下さい。同じ日本国内の白老町と栗山村はスギを除きほぼ陽性率は同一です。しかし全く同じ調査で中国・黎里鎮と宜興市の陽性率は日本よりはるかに低く、ラサ市ではもっと低くなります。
この現象の原因は何でしょう? 栄養・被曝量などに何らかの原因があるのでしょうか。
著者らは本来は何年間も調査を継続し、特に中国の栄養と住環境の変化がアレルギーの陽性率に与える影響を調べ、アレルギー疾患増加の原因をつきとめるつもりでした。しかし社会状況ことに中国の政治状況が変化し、調査の継続は不可能となってしまいました。
いつか著者らより若い世代が、これらの謎を明らかにしてくれる日が来るのかナ? 著者らはこれまでお示しした知見をはるかに乗り越える後進の出現を心待ちにしています。しかし、その夢が実現する日は……果たして来るのでしょうか。
2) ひとりごと
白老町の記念館の前で軍配を手に写真をとりました(図24)。この軍配は著者が幼い頃から自宅にあり、良く相撲ごっこをして遊んだなつかしの品です。
ご存じのように三好一族は清和天皇に始まり、小笠原を名乗った(小笠原諸島の名で知られる一方、松本城主となったため松本市の街角には三好家の家紋三階菱・図25が散見されます)後に四国の阿波へ渡り、地名から三好と名乗り、その後一時は京を占拠し、最初の天下人になったと言われています。
そして1603年に、京都にいた著者の先祖が伊達政宗にスカウトされてこの仙台へ来たのです。
もう1枚の写真(図26)は記念館にある三好監物(著者の後ろ)とその同輩の氏家秀之進(右向き)そしてアイヌの長老の人形で、秀之進は後に七十七銀行を創設しました。
著者の右手の2名は南京医科大学の著者の弟子で、それぞれ京都大学→ウェールズ大学と秋田大学に留学し学位を取得、2人とも母校耳鼻科の主任教授及び臨床教授になっています。なおこの写真には写っていませんが、著者にはもう1名南京医科大学の弟子がおり、九州大学で学位を得て現在は上海交通大学耳鼻科の主任教授になっています。
この3人の留学中、著者はポケットマネーで彼等の生活を援助し続けましたので真の意味での弟子と言えます。
著者は父が胃癌で亡くなって、現在の泉区に新しくクリニックを建てましたが、バブルのはじけたその当時、あらゆる銀行が著者への融資を渋ったものです。
そこで著者は当時の七十七銀行の頭取だった氏家榮一さん(秀之進の子孫)に面会を申し込みましたが、ただちに七十七銀行の頭取室へ招かれ、何の条件もなしに目前で〇億円を用意してもらいました。
150年近い昔の同輩のご縁ですが、それだけ三好・氏家とも深い信頼で支え合って来た証拠と言えるでしょう。
今さらながら、三好監物という悲運に負けず激動の歴史を生きぬいた先祖に心からの感謝をささげ、その名に恥じない自分でありたいと思っているところです。
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