3443通信3443 News

2023年12月 No.346

 

【再】イスラエル訪問レポ 中編

総務課 青柳 健太

図 タイトル左


はじめに
 3443通信280~288号で掲載していた、2018年5月に訪問した中東イスラエルの訪問レポートですが、たった今現在のトピックスですので改めて前・中・後編の3部にわたってご紹介いたします。

前号のあらすじ
 世界最古の港町ヤッファを散策した一行。オスマン朝時代の砦を利用したレストランで舌鼓を打つ一行、しかし、あるメンバーがスリにあってしまいお財布を丸ごと紛失してしまいます。
 警察署にて被害届を出し、体力を使い果たしてホテルに戻りました。

 前話は こちら より。

【3日目】4月28日(土) エルサレム
 今日もエルサレムの空には薄雲が張るも、熱気を与える太陽が存在感を増していました。
 本日はエルサレム市街を中心に回ります(図48)。昨日のアクシデントの影響もあり、少し予定を詰めたスケジュールになっていました。

図48
 図48 60号線を境に分かれるエルサレム


オリーブ山
 エルサレムの東側にあるオリーブ山は、旧・新約聖書にも登場する丘陵地帯です(図49)。標高800メートルほどとそこまでの高さはありませんが、古くからオリーブの生産地として伝わっていたのでオリーブ山と呼ばれるようになりました。

図49
 図49 オリーブ山から見たエルサレム市街


 ここには、イエス・キリストにまつわる教会が複数建てられており、磔刑(たっけい)に処される前のイエスが歩いたとされる階段も現存しているそうです。
 また、エルサレム旧市街を一望できる景勝地でもあるので、多くの巡礼者や観光客が訪れます。
 多くの人がオリーブ山を目指して集まってきますが、山頂までの道は一本道となっているため、早朝に来ないと確実に渋滞につかまります。
 順調に行けば30分程でオリーブ山の山頂に到着します。
 展望台からは、エルサレム旧市街とかつての第1、2神殿上に建てられたイスラム教の『岩のドーム』が見られます(図50)。

図50
 図50 黄金色に輝く岩のドーム


最古のユダヤ人墓地
 視線を手前に移せば、オリーブ山の斜面に並んだ世界最古のユダヤ人墓地が一面に並んでおり、紀元前1世紀から西暦200年頃のお墓がある事が知られています(図51)。
 お墓の正確な数は分かっていませんが、約15万基はあると言われているそうです。西暦2世紀頃までは、亡くなった方は一度土葬された後に骨壺に納骨され、また別の場所に安置されたのだそうです

図51
 図51 数えきれないお墓が並ぶオリーブ山


イエスも歩いたケドロンの谷
 オリーブ山の山頂から西側に降っていくと、旧市街との間にはしる渓谷『ケドロンの谷』があります(図48右下)。
 この谷は南部にある死海まで続いている渓谷で、イエスがエルサレムと近隣の町ベタニアを往来する際に何度も横断したと言われています。そしてケドロンの谷を渡ると神殿を取り囲む城壁がその威容を誇っており、城壁を超えると緑地に囲まれた岩のドームが陽の光を浴びて黄金色に輝いています。
 背景にはエルサレム旧市街の低層建築物と近代的なエルサレム新市街の高層ビル群が見えます。双方が建築された年代には数千年もの開きがありますが、それを一目で展望できるのは、非常に貴重な光景なのだと実感できました。

主の涙の教会
 オリーブ山の斜面に広がる墓地を眺めながら細い石の道を下って行きます。途中、わき道にそれた所に「主の涙の教会」が建っています(図52)。
 この教会の由来は、イエスの弟子ルカによる福音書の記述に基づいて1955年に建てられました。その記述とは、イエスがエルサレムを眺めた際、その滅亡を予言し涙したと言うものです。

図52
 図52 主の涙の教会


ゲッセマネの園
 ケドロンの谷の目前にあるゲッセマネの園は、ヘブライ語で油搾りを意味する言葉です(図53)。園内にはオリーブの木が所狭しと植生しており、中には樹齢数千年のオリーブの木もあるとか。
 イエスはヘロデ王に処刑される前日、この庭園の中で祈りを捧げていたと言われています。

図53
 図53 油搾りを意味するゲッセマネの園


万国民の教会
 ゲッセマネの園に隣接して建てられているのが、この万国民の教会です(図54~56)。
 教会内は原則会話が禁止されており、多くの巡礼者が荘厳な雰囲気の中で祈りを捧げていました。特に祭壇前に置かれているゴツゴツとした岩床は、イエスが祈りを捧げていた場所だと言い伝えられています。

図54
 図54 万国民の教会の外観

図55
 図55 教会内には讃美歌が流れていました

図56
 図56 イエスが祈りを捧げたと言われる岩床


イエス聖誕の地ベツレヘム
 イエスが生まれたとされるベツレヘムはエルサレムの南10kmの場所にある町です。古代イスラエルの王ダビデが生まれた町でもあります。一行は、かつてヨルダンとの国境線(停戦ライン)とされた60号線を南下して、イエス・キリスト生誕の地ベツレヘムに向かいます。
 町の外周は隔離壁に覆われており、町に入るにはゲートを通る必要があります(図57)。

図57
 図57 ベツレヘムのゲート


世界一眺めの悪いホテル
 町の北側から中心街に向かう途中、隔離壁から僅か4メートルしか離れていないホテルがありました(図58)。
 The Walled Off Hotelと言う名前のホテルで、その全室からは隔離壁と監視塔を見る事が出来るのだそうです。泊まる人がいるのか……と思われますが、中には一泊10万円以上もするスイートルームもあるそうです(最安は3,000円程度)。
 このホテルは、イギリス出身の有名なアーティストであるバンクシー(本名不明)が出資しており、ベツレヘムの各所にはバンクシーの手掛けたウォールアートが残されています(図59)。

図58
 図58 世界で一番眺めの”悪い”ホテル

図59
 図59 平和の象徴ハトが防弾チョッキを着ています


イエスの生まれた聖誕教会
 イエスが降誕したとされる洞穴の上に建てられたのが聖誕教会です。正確には、ローマ帝国皇帝のコンスタンティヌス1世(306~337年)の母であったヘレナが、その様に取り決めたと言われています。
 最初期の教会は西暦325年に建てられましたが、十字軍によって外敵を防ぐための要塞として改修されました。
 外広場から教会内に入るには『謙虚のドア』と言われる高さ120cmの低い入口を通ります。まるで日本の茶室に入るための入口の様です。
 石造りの教会内は、外気温の高さとは裏腹に冷輻射によってひんやりとしています。本来であれば静謐な雰囲気が漂っているところですが、観光客がまるで満員電車のように詰めかけており、とても賑やかな状況です(図60)。

図60
 図60 人で埋め尽くされた聖誕教会の中


 入口から祭壇に至る身廊(しんろう)と呼ばれる通路の一部の床が開放されており、建築当時の物とされるモザイク床を見る事が出来ます(図61)。

図61
 図61 約1700年前のモザイク床


 祭壇には、部屋を区切るための聖障(イコノスタシス)と呼ばれる壁があります(図62)。木製のこの壁は、非常に細かい装飾がそこかしこに彫られており、聖書などにおける出来事を描いた絵であるイコンが組み込まれています。

図62
 図62 非常に細かい装飾の施された聖障(イコノスタシス)


 その聖障の真下にはイエス降誕の場所とされる部屋があります(図63、64)。祭壇横の人一人がやっと通れるくらいの狭い入口をくぐり、暗い階段を降りると、星が描かれた床に丸い穴が開いています。多くの人がその穴をのぞき込み、祈りを捧げていました。

図63
 図63 聖障の真下に通じるトンネル

図64
 図64 イエスが降誕したとされる場所


聖書を訳したヒエロニムス
 聖誕教会に隣接する聖カテリーナ教会の前には、ヘブライ語で記された聖書をラテン語に翻訳することに生涯を捧げた聖ヒエロニムスの像があります(図65)。

図65
 図65 聖カテリーナ教会と聖ヒエロニムスの像


 像の足元には、翻訳作業を手伝った女性パウラを模した骸骨があります。彼女の死後、ヒエロニムスは彼女の骸骨をそばに置いて翻訳作業を続けたそうです。
 ヒエロニムスの翻訳した聖書『ブルガタ版ラテン語聖書』はカトリックの公認聖書に指定され、キリスト教が世界中に広まった要因とも言われています。

昼食はアルメニア料理“ブルグールジ”にて
 このお店はアルメニア人が経営しているそうです(図66)。
 必ず出てくる前菜類を、ピタという中が空洞になっている円形のパンに詰めて食べます(図67~69)。
 また、このお店で飲んだ『ゴールドスター』というイスラエル産のビールは口当たりが良くて飲みやすいです(図70)。

図66
 図66 アルメニア料理店『ブルグールジ』

図67
 図67 ピタに挟む前菜類

図68
 図68 鶏肉と牛肉のトマト煮

図69
 図69 インゲン豆のトマト煮

図70
 図70 イスラエルの地ビール『ゴールドスター』


知らずば助命の鶏鳴教会
 エルサレム旧市街を囲む城壁。その内外を繋ぐ8つの門のうち一番南にあるシオン門外のやや南東に、鶏鳴教会と呼ばれる教会があります(図71、72)。

図71
 図71 鶏鳴教会の外観

図72
 図72 弟子ペテロが「イエスを知らない」と言ったシーン


 なぜ鶏が鳴くと書くのか……。これはイエスの弟子であるルカの福音書にその理由が書かれています。
 ゲッセマネの園にいたイエスはヘロデ王により捕らえられ、鶏鳴教会の地下牢に留置されます。
 イエスは、弟子ペテロが自身へ罪が及ぶことを恐れるあまり、鶏が鳴くまで、つまり朝になるまでにイエスの事を3回「知らない」と言うだろうと予言しました。
 その予言通り、ペテロはイエスの事を知らないと3度にわたって発言して難を逃れたのです。

意外と狭かった“最後の晩餐”会場
 レオナルド・ダヴィンチの絵画『最後の晩餐』を見たことがある人は多いと思います。しかし、実際の晩餐会場となった部屋は絵に描かれるような大広間ではなく、少し手狭な印象の個室で開かれたのだそうです(図73)。
 別名ペンテコステ(五旬節)の部屋とも呼ばれており、イエスが亡くなった50日目、弟子たちに聖霊が降りた場所とも言われているそうです。

図73
 図73 意外とこじんまりとした”最後の晩餐”の部屋


園の墓
 旧市街8つの門の内、一番賑わっているのが北のダマスカス門です。
 その門のさらに北にある園の墓と呼ばれる場所は、イエスが処刑されたとされるゴルゴダの丘、その本来の場所ではないかという説があります(図74)。
 一般的にゴルゴダの丘とされる場所は、旧市街の西側に造られた聖墳墓教会のある場所だと言われています。しかし、この園の墓には人の顔のように見える岸壁があり、ゴルゴダという言葉も骸骨と言う意味を持っていることから、そのような説が生まれたようです。

図74
 図74 ゴルゴダの丘とされる園の墓


 まる1日を掛けた視察で、頭の中は混乱状態になりました。お昼が遅かった事もあり、この日の夕食は辞退して床に就きました。

【4日目】4月29日(日)、死海地方へ
 日差しの強さに目を細めるも、湿度の低さからか不快感はあまりないエルサレムの朝。
 今日は、南の死海地方へ向かいますが、その前にエルサレムと言えばここでしょ! という場所へ向かいました。

西(嘆き)の壁
 エルサレム旧市街の東側には、かつてユダヤ教の神殿が建てられた神殿の丘と呼ばれるエリアがあります。その西南部分にある第2神殿時代の外壁が通称『嘆きの壁』と呼ばれる場所です。
 なぜ、この場所が重要なのか。
 かつてこの神殿の丘に建てられていたユダヤ教の神殿は、古代イスラエル王国が滅亡した後、バビロニアでの虜囚から帰還したユダヤ人達によって建てられました。

 しかし、ローマ帝国の支配時代にその神殿は破壊されてしまい、破壊から逃れた外壁の一部が嘆きの壁と言われている西の壁にあたります。
 エルサレムの陥落後、年1回の訪問を許されたユダヤ人達は来訪の度に帰郷の念を強めていき、その悲願が果たされたのは約1900年後の第3次中東戦争後になります。

 西の壁の写真(図75)を見ると、高さによって石の大きさなどにバラツキがあるのが見てとれます。これは、その時代の王朝によって拡張がされたためで、地面の高さから7段目までは第2神殿時代、8段目から11段目はローマ帝国時代、その更に上の細かい石はマムルーク朝時代に増築された物と言われています(図76)。

図75
 図75 嘆きの壁と院長

図76
 図76 各時代に増築された嘆きの壁


 エルサレム全域がイスラエルの占領下に入った1948年以降、西と南側の外壁面の発掘が進んだことで、壁の基底部まで埋まっていた17段分の壁が見る事ができます(図77)。
 しかし、この外壁は基底部から最上部までの高さが30mを超えています。
 これは古今東西の城の一般的な城壁の高さである10~15mを優に超えており、その倍の高さに相当する大城壁となっています。とても数千年前に建てられた建築物とは思えません。

図77
 図77 発掘された第2神殿跡


 西の壁のあるエリアに入るには、一度セキュリティゲートをくぐる必要があり、持ち物のX線検査があります。
 また、服装も短パンなどのラフな格好では入場拒否をされる事も少なくないそうですが、中にはラフな格好の人も散見されましたので、その時々で判断が分かれるのかも知れません。

 特に敬虔な信者は、黒色の服とハットを被って祈祷をしていました(図78)。
 観光客は入口で配られている簡易的な帽子(キッパ)を被ってから入場します。男女で祈祷できる場所が区切られており、男性は北側、女性は南側に分かれます。
 非常時のために爆発物を投げ込む耐圧タンクが置いてあるのが印象的でした(図79)。

図78
 図78 敬虔なユダヤ教信者

図79
 図79 爆発物を投げ入れる耐圧ポッド


ちょっと間食、露店のパン
 旧市街の南にある糞門、かつては排せつ物を運び出すために使われた門から出ると、路上にいくつかの露店が並んでいます。セリアさんがその中から、ゴマのまぶしたパンと『ザーター』と呼ばれるスパイスミックスを買ってきてくれました(図80)。
 まずはパンのみを一口。ほんのりとした甘味が口の中に広がり、外はカリッと中はフワッとした食感がとても美味しく感じました。そこにザーターをつけて食べてみると、塩味とスパイスの刺激的な香りが加わり、また別の楽しみ方ができます。
 さすがイエスが「パンは私の肉……」と言わしめた国。数千年もの年季の入ったパン造りの技が込められています。

図80
 図80 外はカリカリ、中はフワッと


死海地方へ
 エルサレムから高速1号線を東へと向かうと死海地方に入ります(図81)。徐々に周囲の景色が砂色の荒れ地へと変貌していきます。

図81
 図81 古代遺跡が点在する死海地方


「ここは火星の大地です」と言われても違和感のない風景に、思わず言葉を失いました(図82)。
 遠くアフリカから続く総延長7,000キロメートルの長さを誇る大地溝帯と呼ばれる巨大な谷、死海地方はその谷の北端にあたるエリアです。この谷を境にして西側にアフリカプレート、東側にアラビアプレートという断層に分かれており、2つの大陸プレートの切れ目によってヨルダン渓谷が形成されています。
 グーグルマップを見てみると、大地溝帯にそってアカバ湾や紅海が作られているのが見て取れます。
 元々、死海地方の一帯は海の底であったので海抜マイナス400メートル程の窪地になっています(図83)。

図82
 図82 まるで火星のような風景

図83
 図83 東京タワー以上の高低差がある死海地方


オアシスの町エリコ
 古代から続くオアシスの町エリコは、紀元前1万年ほど前にはすでに人が住んでいたとされる跡が残されており、世界最古の城塞都市と言われています(図84)。その遺跡は、町の北西にあるテル・アッスルターンと呼ばれる場所にあります。
 エリコ周辺が見渡せる小高い丘に登るとその中央付近に発掘現場があり、1万年前の住居跡や約4千年前の城壁が土中から姿を現しています(図85)。その地層をよく見てみると何層もの茶色の縞が入っており、それは過去に町が焼けて滅ぼされた跡なのだそうです。長い歴史の中で行くたびも戦火に沈んだ町ですが、砂漠のオアシスという好立地が人を集める事になったのだと感じました。

図84
 図84 オアシスの町エリコ

図85
 図85 約4000年前の城壁跡


ヨルダン川での洗礼
 紀元26年頃、イエスはこの地に訪れた際、ヨルダン川のそばで説教をしている洗礼者ヨハネと出会います。そしてイエスはヨルダン川で洗礼を受けたと言われています。
 現在、カスル・エル・ヤフドと呼ばれるその場所は、ヨルダン川を挟んですぐ目の前にヨルダンの国土が広がっています(図86)。

図86
 図86 すぐ目の前は隣国ヨルダンです


 驚いたのはその川幅の狭さです! 対岸のヨルダン側にもこちらと同様に川面まで下りられるベランダが作られていますが、相手の顔が判別できるくらいの距離しか離れていません。川を泳いでいけば10秒以内にヨルダンへと渡ることが出来てしまいます。
 川の水は茶色に濁っており、気温に比してその水温は低いため手を入れてみると心地よい冷たさを感じました。
 国境線と書かれた看板のすぐ横で、老若男女問わず多くの洗礼者が頭まで川に浸かっていました(図87)。

図87
 図87 ヨルダン川での洗礼


死海写本が見つかったクムラン遺跡
 1947年、死海の西北部にあるクムランという土地の洞窟から巻物の入った壺が大量に発見されました。
 その総数600を超える巻物は、今まで最も古いと考えられていた写本(旧約聖書とその関連書物)よりも更に千年ほど前の時代の書物とされ、その量と質は20世紀最大の考古学的発見として話題になりました。
 死海文書とも呼ばれ、熱狂的な社会現象を起こした某有名アニメにも登場しています(図88)。

図88
 図88 死海文書の一部


 この遺跡の特徴は、山から流れてくる水や雨水を効率的に貯め込む構造が施されており、水の少ない地方に住む人たちの英知が集まった施設だったようです(図89)。
 しかし、この地域に住んでいたユダヤ民族はローマ帝国の支配時代に滅ぼされてしまい、その際に隠されたこれらの文書が再び日の目を見るのは実に千年後になります。

図89
 図89 貯水機能を持ったクムラン遺跡


マサダ遺跡
 死海のほとりにある高地が、かつてローマ帝国とユダヤ民族との間で起きたユダヤ戦争、その最後の決戦場となったマサダ要塞です(図90)。
 西暦73年に終結したユダヤ戦争ですが、その最後の戦場となったマサダでは、エリエゼル・ベン・ヤイール司令官ら967名のユダヤ人たちが籠城していました。
 対するマサダ要塞を包囲するローマ帝国軍は約1万人。10倍以上の差という絶望的な兵力差があるなか、ユダヤ人たちは3年近くも籠城し戦い続けました。

図90
 図90 マサダ要塞


 なぜ、そこまでの兵力差がある中にも関わらず籠城し続ける事が出来たのか。まず1つにはマサダ要塞を難攻不落ならしめるその立地にあります。
 要塞の周囲360度は切り立った絶壁となっており、往来には蛇の道と呼ばれる細い間道を使う必要がありました(図91)。当然、細い道では大軍を展開するスペースがないので、守備側にとっては守りやすくなります。
 また、要塞には無数の食糧庫や雨水をためるための貯水槽が整備されていたので、水・食料不足に陥る心配がなかった事も大きな助けとなりました(図92)。

図91
 図91 北側の崖に突き出た神殿跡

図92
 図92 食料などを納めた貯蔵庫跡


 しかし、攻め手のローマ軍はユダヤ人の奴隷などを使った人海戦術を駆使して、要塞の西側に石を積み上げた斜面を造成して攻め上がり、2年以上におよぶ籠城劇は幕を閉じました(図93)。
 こうして国を滅ぼされたユダヤ民族は、以後2,000近くに渡って離散の時代を迎える事になります。

図93
 図93 ローマ軍が攻め上るために造った斜面


 この地がイスラエルの管理下に置かれた現在、マサダ要塞は世界遺産として国内外から多くの観光客を受け入れる観光地となりました。
 加えて、イスラエル軍に入隊する新兵はこのマサダ要塞で入隊宣誓式を行うことが恒例となっています。二度とユダヤ人は滅ぼされないと言う決意とともに、厳しい軍務に励むのだそうです。

夕食はホテル“ダニエル・デッド・シー”にて
 灼熱のマサダ見学を終えた一行は、更に20kmほど南下した死海沿岸のエン・ボケックという町へ向かいます。この町は死海遊泳の中心的な場所で、湖岸には多くのリゾートホテルが林立しています。
 その中でも1、2を争う高級スパ・ホテルが『ダニエル・デッド・シー』です(図94)。屋外プールにジャグジー、スポーツジムやトルコ式サウナなどのアクティビティ設備が完備されており、道路を渡ればすぐに死海のビーチへと繰り出すことも出来ます。

 夕食はビュッフェ方式ですが、1回で制覇する事は難しい程のメニューが並んでいます(図95~100)。
 とても食べきれる量ではないのですが、目の前に料理があるとついつい手が伸びてしまいます……。今日もお腹を一杯にしてベッドに沈み込みました。

図95
 図95 サラダバー

図96
 図96 こちらはスープ類

図97
 図97 サフランライスは付け合わせの数々

図98
 図98 パンはどれも美味しいです

図99
 図99 焼きそばのような物もあります

図100
 図100 牛肉の煮込み料理など


【5日目】4月30日(月)、ティベリア地方
 太古の時代、死海地方は人間を寄せ付けない深海の世界でした。その時のなごりが塩分濃度の高い死海と、海抜マイナス400メートルという地形に表れています(図83)。南北に長く窪んだ地形は熱された空気が留まりやすく、早朝から汗ばむ位の暑さを感じました(図101)。

図101
 図101 死海の夜明け


不思議な死海遊泳
 朝一番の死海遊泳へと繰り出した一行は、ホテルのすぐ目の前にあるビーチへ向かいます(図102)。
 ビーチには、すでにいくつかのグループが水着姿で遊泳を楽しんでいました。メンバーも次々と死海へと足を踏み入れて、水に浮くと言う不思議体験を味わっていました(図103)。

図102
 図102 整備されたエン・ボケックのビーチ

図103
 図103 死海に浮かぶ院長


 なぜ死海で体が浮くのか。それは死海の水が海水の10倍という多量の塩分を含んでいるからです。
 例えば、2つのサイコロがあったとします。片方は木製、もう片方は鉄製だとします。この2つを水に浮かべると、木製のサイコロは水に浮かび、鉄製のサイコロは沈んでしまいます。
 これは水の密度に比べて、木のサイコロは密度が低く(軽く)、鉄のサイコロの方が密度の高い(重い)素材で出来ているからです(図104)。この重さの差は比重と言われ、木のサイコロは水に沈むのに必要な密度(重さ)に達していないので浮かんでしまったのです。
 死海の水は約30パーセントもの塩分を含んでいます。そのため、死海の水よりも比重の軽い人の体はプカッと浮いてしまうのです。

図104
 図104 比重で変わる浮き沈み


 私も水面に手のひらを押し当ててみた所、まるで透明の固形物でも触っているようなブヨブヨとした抵抗(浮力)を感じました。これは面白い!
 よほど塩っ辛いのかと思って水を舐めてみると、塩味よりも苦みを感じました。後から調べると、豆腐を作るのに必要な苦汁(にがり)の主成分である塩化マグネシウムを多量に含んでいるため、死海の水は苦味を感じるのだそうです。
 また、他の様々な温泉成分も含んでいるため、水自体がペタペタとしたオイリーな感触です。
 実際に死海にはいった人の話では、体の末端にあたる手足が勝手に浮いてしまうので、泳ぐ動作が出来ずに不思議な感覚だったと話していました。

 しかし、楽しいばかりとは言えないのが死海の恐ろしさです。

 あまりにも塩分濃度が高いため死海の水に長く使っていると、肌が荒れてしまう事もあるそうです。また、目に水が入ってしまうと最悪の場合は失明の危険も考えられるそうです。そして多量に飲んだ場合、胃に穴が開いて胃出血の危険もあるとか? 世界一危険な湖水浴場ですね。

ティベリア地方
 朝の湖水浴を終えた一行は、ヨルダン川沿いを走る90号線を北上して北部のティベリア地方へと移動します(図105、106)。
 この地域の中心土地が、地方の名を冠したティベリアです。この町の興りは2千年前のイスラエル王ヘロデの息子アンティパスが、時のローマ皇帝ティベリウスに敬意を表して建設されました。そのため、町にはローマ風の建築物の名残が随所に残されています。

図105
 図105 イスラエル北部のティベリア地方

図106
 図106 ガリラヤ湖


昼食は元要塞“エルミタージュ”にて
 ガラリヤ湖畔にあるこのレストランは、12世紀に十字軍の駐屯した要塞跡を利用しています。その作りはまさに頑強そのもので、人の頭ほどの大きさの黒い玄武岩を積み重ねて造られています(図107)。外気温は39℃の猛暑ですが、岩の冷輻射によって室内は涼しさを感じました。

図107
 図107 要塞跡のレストラン


 料理はお馴染みの、前菜類とそれらを挟むピタのサンド。それとガリラヤ湖の名物であるセント・ピーターズ・フィッシュです(図108)。
 この魚は、スズキの一種であるティラピアという魚で、日本でも鯛に似た身の魚という事でよく食べられていたそうです。
 名前の由来は、イエスの弟子である漁師兄弟の兄ペテロがガリラヤ湖で釣りあげたこの魚が銀貨を加えていた事から、幸運の魚、聖ペテロの魚と呼ばれるようになったそうです。
 身の締まった白身は淡水魚特有の臭みはなく、ホクホクとした食感はまさに鯛に似ていると感じさせます。付け合わせのお米に塩が混ぜられており、一緒に食べると丁度良い塩梅になるようです。

図108
 図108 セント・ピーターズ・フィッシュ(スズキ)


 食後のデザートはナツメを使ったお菓子です(図109)。皮を剥いでトロリと熟した実の部分を食べます。干し柿に近い味ですので、恐らく生のナツメを日陰に干して作っているのではないでしょうか。

図109
 図109 ナツメのお菓子


山上の垂訓教会(すいくんきょうかい)
 さて、お昼ご飯でお腹を膨らました後はティベリア地方の教会巡りです。
 まず訪れたのは、ガリラヤ湖が一望できる丘の中腹に立つ山上の垂訓教会です(図110、111)。この教会は1930年に建てられ、イエスによる教義の最も重要な事を語った場所だと言われています。

図110
 図110 山上の垂訓教会の外観

図111
 図111 金細工の施された教会内


「求めよ、されば与えられん」や「狭き門より入れ」と言った有名な文言も、ここで生まれました(図112)。

 この地方は亜熱帯性の気候のため、季節によって四季折々の姿を見せてくれるそうです。周囲を見渡すと、ガリラヤ湖の周囲は緩やかな丘陵地帯となっており、ブーゲンビリアなどの色鮮やかな草花があちこちに散見されます。
 荒涼とした南部の景色とは打って変わって、とても穏やかな雰囲気の漂う楽園とも思えるような景色に、イエスも心落ち着かせて教義に集中する事が出来たのではないでしょうか。

図112
 図112 イエスの名言が生まれた地


古代貿易の中継地カペナウム
 この遺跡は、紀元前2世紀頃に造られたと考えられています(図113)。
 地中海からイラク方面への交易路の中継地として栄え、そのルートはダマスカス(シリア)を経由してバビロン(イラク)へと通じていたと言われています。

図113
 図113 カペナウムの遺跡


 ユダヤ教の集会所と言えるシナゴーグ跡には、機能性を感じさせる門、石材の壁、細かい装飾の施された石柱が残っており、当時の姿がうかがい知れます(図114、115)。

図114
 図114 シナゴーグ跡がはっきりと残されています

図115
 図115 ローマ帝国時代の遺跡


ナショナル・ダイヤモンド・センター
 ティベリアの裏路地に『カプリス』とだけ書かれた看板のある建物があります。建屋に窓はなく、荒い目のコンクリートで作られたその建物は、何かの町工場にも見えます。
 そこは、実に世界60パーセントものダイヤの原石が集まるナショナル・ダイヤモンド・センターの工房です(図116)。
 内部に入るとダイヤ採掘の工程と、昔使われていた器具などが置かれていました(図117)。

図116
 図116 建物が判別できる唯一の看板

図117
 図117 入口すぐの資料室


 視聴覚室ではダイヤの歴史と加工についての簡単な解説ムービーを鑑賞し、建物の半分は占めるのではないかと言う広さの販売エリアに移動します。
 入口付近には工房も併設されており、ガラス越しにダイヤ加工の様子を見学する事が出来ます(図118、119)。
 熟練の加工職人たちが様々な器具の並べられた机に向かって、一心不乱にダイヤや装飾リングの加工を行っていました。

図118
 図118 ガラス越しに見学できる工房

図119
 図119 ダイヤ指輪の加工


ダイヤモンドとは
 この工房では、主にオーストラリア、ロシア、アフリカから産出したダイヤを取り扱っています。
 ダイヤは、地球内部の高温・高圧という極限状態から生み出されます。
 ダイヤの元となる物質は炭素です。本来は地球内部からマントルの対流によってゆっくりと地表へと移動することでグラファイト(石墨、黒鉛)になるハズの物が、火山活動などによって一気に地表付近に押上げられる事でダイヤに変化すると言われています。一定条件下でしか生み出されない希少性と無色透明の輝きを持つダイヤは、古代から魔除けとして人類の歴史と共に歩んできました(図120~122)。

図120
 図120 様々なダイヤが陳列されています

図121
 図121 種類によって特徴が変わります

図122
 図122 なかには300万円以上の品もあります


天然ダイヤと人工ダイヤの違い
 しかし、近年ではダイヤの産出量が減少傾向にあるらしく、天然ダイヤの取り扱いが難しくなって来ているようです。
 そこで登場したのが人工的に生み出された合成ダイヤです。
 1700年代末に、ダイヤが実は炭素のみで構成されている事が発見されると、安価な炭素を用いた合成技術の開発に火がつきました。

 しかし、地球内部の極限状態を再現するには技術的な困難を極め、最近になって科学と化学を用いた人工ダイヤが生み出されました。
 初期の人工ダイヤは、天然ダイヤと比べて炭素以外の元素も混じっている事から、色付きや硬さも劣っていました。そのため、装飾品としてではなく医療機器や工業製品などの産業目的で使用されていました。

 ですが、技術的な進歩を遂げた今では、宝石としての人工ダイヤが数多く作られています。その中でも有名なのがキュービックジルコニアやモアッサナイトと呼ばれる物です。これらは構成元素が違うので厳密にはダイヤとは別種の物ですが、ダイヤに似た輝きと低価格なことから、お店でもよく見かけられるそうです。
 素人では判断がつきにくいため、あたかも天然ダイヤだと思って買った物が実は人工ダイヤだったという可能性もあり、どう区別するのかという問題が表面化してきています。

人工ダイヤの進化
 最近では、故人の遺骨などを使ったメモリアル・ダイヤモンドと呼ばれる物もあります。
 スイスの会社では、預かった故人の遺骨や遺灰に高温高圧処理を施したダイヤを、遺族を守る護石というコンセプトで作成しているそうです。

アップグレードしたハズが?
 ダイヤモンド・センターを辞したメンバーは、ティベリアの南にある宿泊するリモニム・ミネラル・ホテルへと向かいます(図123)。
 本当は、昼食を摂ったレストランに隣接するホテルに泊まる予定でしたが、ガイドさんがリニューアルしたばかりの1ランク上のホテルに変更してくれたのだとか。
 どのようなホテルなのかと期待が膨らみます。

図123
 図123 ホテルの外観


 さて、ホテルに到着して無事にチェックインも完了。エレベーターを待って部屋のある階に上がろうとした時です。エレベーターの扉が、金属同士を擦れ合わせた様な音を響かせつつ開きました……。よく見ると銀色の扉には、左右に引っ掻いたような跡が見受けられます。

 一同「ええ~……」と一言。

 それでも気にしない事にして階を上がり、部屋に入ろうとカードキーをドアノブにかざすと……。5人中3人のカードキーは使用できず、立ち往生する一同。

 さらに「ええぇ~……」と一言。

 カードキーを交換して部屋に入るも、ある部屋の電気がつかない、またある部屋は窓のノブが外れかけているなど、まさかのサプライズ(本当の意味は”不意打ち”)の連続に一同の“部屋自慢”は尽きませんでした(図124)。

図124
 図124 あと少しで外れそう……


 ご飯はビュッフェ形式で、鶏肉のオーブン焼き、外国から来る観光客向けに洋食寄りのラインナップになっていました(図125~127)。
 イスラエルで食べる料理は、味付けは濃くもなく薄くもなく、ハーブなどの香りも特段強い事もないので、とても食べやすい(食べ過ぎる位に)のが安心できるポイントです。

図125
 図125 お米は軽く塩味がついていました

図126
 図126 魚、肉、野菜が豊富に取り揃えてあります

図127
 図127 一番迫力のあった鶏肉のオーブン焼き


 明日は、シリアとの国境にあるゴラン高原へ向かいます。

つづく


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 以下、イスラエルに関するインターネット記事をご紹介します。

1.家族と再会する人質たち。イスラエルに出来て日本に出来ないこと
  (加藤 健@JapanLobby|ツイッター)

2.イーロン・マスク氏、圧力に屈せずガザ地区でのスターリンクのサービス提供に合意
  (morpheusReloaded地滑り的勝利への覚醒@Reloaded7701|ツイッター)

3.国家の責任を果たすイスラエル。その頃日本は……
  (門田隆将@KadotaRyusho|ツイッター)

4.藤井厳喜氏のメルマガ「ルネサンス編集部」11/23号より、以下を一部抜粋
◼︎メディアが報じない「イスラエル」の真実
 イスラエルという国について誤解があるといけないので、一つお話ししておきたいと思います。
 それは、イスラエルは大変民主的な国家だということです。

 イスラエルは国民900万人のうち、20%がアラブ系(約180万人)、いわゆるパレスチナ人です。
 そしてこの人たちにもきちんと参政権が与えられています。
 少数派ではありますが、アラブ民族の党もあります。
 国会議員もいますし、かつては連立政権で与党側になって、大臣が出たことがあります。

 そして、これらのパレスチナ人は兵役の義務を免除されています。

 イスラエルでは男性が3年、女性が2年、兵役の義務があります。
 しかしパレスチナ人にも兵役を課すと、ガザ地域に住んでいる同じパレスチナ人に対して銃を向けざるを得ません。
 それはパレスチナ人にとって大変辛いことですから、そういったことを考慮して、免除されているのです。

 ですから、パレスチナ人がイスラエル国民として自分たちの文化を守り、信仰を守りながら生きていくこともできるのです。
 これはチャイナにおけるチベット人やウイグル人の立場とは全く違います。

 そのことが日本のメディアでは紹介されておりません。

 そして今回のハマスのテロ攻撃ですが、それ以前から毎日のようにロケット弾がイスラエルに撃ち込まれていたということもまた事実です。
 そしてガザ地区も、かつてはイスラエルが占領していましたが、今はもう引き上げています。
 ですから本来なら和平に向かってもいい状況だったのに、ハマスというテロ集団がそこを占拠してしまったということです。

 そのようなイスラエルの立場も知っておくべきかと思います。
 今回のニュースで非常に気になるのは、ハマス側の報道をそのまま事実として日本のテレビでは話していることです。
「病院が爆撃されて500人死んだ」という数字一つとっても、検証された数字ではありません。
 そしてハマスが病院や学校を利用して、そこに基地を作っている。
 さらにロケット発射装置を据えてイスラエルを攻撃している。

 こういったことも事実なのです。
 日本の報道ではバランスがとれていないと感じます。

■日経インタビューからわかる
 
和平を望むイスラエル国民

 そのような中で、11月9日の日経朝刊が大変いい記事を載せていました。
 シンベトというイスラエルの諜報機関で、長官をやっていたアミ・アヤロンさんという方のインタビュー記事です。
 このアミ・アヤロンさんはイスラエル海軍トップの立場を経て、1996〜2000年にシンベト長官を務めた方です。

 記事によると、「対パレスチナ政策の何が間違っていたのか?」という質問に対し、次のように答えています。

「ネタニヤフ政権は、カタールからハマスに巨額の資金が流れるのを黙認した。パレスチナ国家の樹立を実現させないため、(パレスチナ自治政府の主流派の)ファタハに対抗させた。パレスチナが分裂しているから対話できないという言い訳にしていた」

 非常に大事な話をされていると思います。

 ファタハというのはヨルダン川西岸地域に自治政府を作っているパレスチナの政党です。
 そのファタハと対立しているのが、ガザにいるハマスなのです。
 そこでハマスの力が強くなればパレスチナが分裂してくれる。
 そうすれば、「対話する相手がパレスチナにはいないじゃないか」と、話し合いを拒否することができる。

 そのようにネタニヤフ政権は考えていたということです。

 そうしているうちに、ヨルダン川西岸にユダヤ人がどんどん住み始めたという経緯があります。
 つまりネタニヤフ政権は、自分たちの一番の敵であるはずのハマスが力をつけることを望んでいたということ。

 これがまずかったのだと、アヤロンさんは言っているのです。

 そして次のようにも言っています。

「重要なのは、双方が希望を抱けることだ。私の生きている間には無理だとしても和平は実現可能だ」

 このシンベト元長官のように、軍のトップにいた人など、イスラエルの安全を何よりも大事と思っている人の中には和平合意を望んでいる人が多くいます。
 私は早くこの戦乱が収まることを祈りますし、その後には必ず、和平の機運が盛り上がってくると思います。
 多くのイスラエル国民は、パレスチナとの共存平和を望んでいるのです。

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