2023年11月 No.345
【再】イスラエル訪問レポ 前編
総務課 青柳 健太
はじめに
3443通信280~288号で掲載していた、2018年5月に訪問した中東イスラエルの訪問レポートですが、たった今現在のトピックスですので改めて前・中・後編の3部にわたってご紹介いたします。
イスラエルとは
イスラエルという国の歴史は大まかに近代と紀元前後に分けられています。
1948年、ユダヤ人が中心となって建国した国家がイスラエルですが、この土地には紀元前2000年頃からユダヤ民族の祖先であるヘブライ人のみならず様々な民族がこのパレスチナ地方に住んでいた歴史があり、数多くの王朝が勃興してきました。
まず、イスラエルという名称の由来ですが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の始祖と言われるアブラハムの孫ヤコブの別名と言われています。ヤコブは古代イスラエル王の祖先であったため、その王朝の興ったカナンと呼ばれた地域をイスラエルと呼ぶようになりました。
ユダヤ民族の歴史
紀元前11世紀頃、ユダヤ人の祖先がこの地にイスラエル王国を建国しました。しかし数世紀を経て王朝は分裂し、新バビロニア、ペルシア帝国、ローマ帝国と土地の支配者が移り変わっていき、ユダヤ人は様々な地域に分散してしまいました。
それから時は流れ、1800年代のヨーロッパにおいてユダヤ人によるイスラエルの地への回帰(シオニズム運動)が叫ばれるようになりました。
そして、1914年に第一次世界大戦が始まるとユダヤ人はイギリスとの協力と引き換えにパレスチナ地方にユダヤ人のナショナル・ホーム(居住地)を実現させる約束を取り付けます。
戦勝国となったイギリスはパレスチナの委任統治をする事になり、約束通りにユダヤ人の土地への移民を推し進めました。
つまり「パレスチナ」とは土地の名称であり、「パレスチナ人」とはそこに住んでいたユダヤ民族、地中海貿易で栄えたフェニキア人、旧約聖書に登場するカナン人などの多民族からなる人々の事を指すようになったと言われています。
なぜ、さまざまな宗教の聖地となったのか
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教と言った宗教は誰もが耳にしたことがあると思いますが、実はその大本を辿ると1人の人物に関連付けられると考えられています。
その人物とは、聖書に記された『ノアの箱舟』の主人公であるノア、その10代目の子孫であるアブラハムです。
彼は信仰心のあつい信者だったため神からの言葉を受ける予言者となりました。その神の言葉をまとめたものが聖書やコーランという各宗教の聖典の基となったと言われています。
一般的に聖書と言われるとキリスト教の旧約聖書、新約聖書を思い浮かべますが、これらの基になったのはユダヤ教の聖典『タナハ』です。
時代の流れと人の繋がりが広がると共に様々な解釈がなされていき、それぞれに共感を覚えた人が集まる事で現在の宗教の形になっていったと思われます。
そして、それぞれの宗教にとって聖地とされたエルサレムは、各宗教にとって次のような重要な意味を持っています。
ユダヤ教の聖地
ユダヤ教の視点では、この地はアブラハムの子イサクを神に捧げたモリヤの丘であるとされ、古代エルサレム時代にユダヤ教の礼拝を行う神殿が建てられた場所と言われています。
キリスト教の聖地
キリスト教の視点では、神の子イエスが十字架に磔にされて最期を迎えた土地であるとされています。
当時のエルサレムは親ローマ派のヘロデ王が統治しており、イエスの説く考えが民衆を扇動してローマに対する反乱に繋がると恐れていました。その不安が積もっていき処刑に繋がったと考えられています。
イスラム教の聖地
イスラム教の視点では、アブラハムを始祖とする予言者ムハンマドが昇天した場所とされています。
サウジアラビアのメッカ、メディナに続き、エルサレムは3番目の聖地とされています。
このように、基は同じでもそこから発展していった経緯の違いから、それぞれが独自の神を有する宗教として発展していきました。
【1日目】4月26日(木)
今日は日本からの出国日。早朝から成田空港の国際線出発ロビーにて参加メンバーと合流します。
今回のイスラエル訪問は、本誌ではたびたびご紹介してきたイスラエル親善大使のセリア・ダンケルマンさんのコーディネートによって実現しました。そのセリア様の声掛けにより、地元宮城県の亘理町からお二人、遠く京都から参加のお一人を交えた少人数での渡航となりました。
朝7時、第1ターミナルから発着する大韓航空706便は、一路韓国の仁川(ルビ:インチョン)国際空港へと降り立ち、同957便へと乗り換えてイスラエルの首都空港であるベン・グリオン空港へ向かいます(図1)。
図1 富士山がとてもキレイに見えました
アジアのハブ空港・仁川国際空港
仁川国際空港は1992年に着工、9年後の2001年に開港しました。アジアとヨーロッパやアメリカを結ぶハブ空港を目標とされたため、永宗島と龍遊島という2つの島の間を埋め立てる事で広大な飛行場用地を確保することが出来ました。
3本の滑走路と2つの旅客ターミナルがあり、年間の旅客数は約4400万人、貨物量450万トンもの処理能力を持った大規模ハブ空港です。
私たちは、2013年に新設された北側の第2旅客ターミナルで3時間余りの接続待ちの時間を過ごします。
ターミナル内には各種免税店のほか、冷麺・ビビンバに代表される韓国料理店、ファーストフード店やカフェ、また長時間の待ち時間を快適に過ごせるように美術館やアートギャラリーに音楽フェス、無料で使えるシャワーやマッサージチェアなどのリクライニング設備も完備しています。
とても大きなショッピングモールのようでもあり、今ではターミナル内のお店を目的に来る人もいるそうです(図2~4)。
図2 仁川国際空港は巨大なショッピングモールのようです
図3 ターミナル内には店舗のほか、緑地も造成されています
図4 セリアさんが食べたサムゲタン
イスラエルまでの12時間
さて、ここからイスラエルまでは約12時間は飛行機内で過ごすことになります。結論を先に言ってしまえばキツイの一言です。下半身(特に足)が何とも言えない痛みを感じるので、足をもむなり胡坐をかくなどしないと気になって眠れません。
特にエコノミー席の窓側になるとトイレに行くのも気兼ねしてしまい、ろくに立つことも出来ません。
座席用モニターで観た映画3本、発着前に買ったスマホ用の小説2冊を駆使するも、現地到着まで未だ5時間は掛かると知った時の気持ちは忘れられません。今度から長距離飛行の際は通路側の席にしようと固く心に誓いました(図5)。
図5 機内食はチキンをオーダーしました
中央アジアを横断(図6)
仁川国際空港を飛びたった957便は、中国とモンゴルの国境沿いを西へと向かい、ウイグル自治区上空でやや北西に進路を変えます。そして中央アジアのカザフスタン上空で真西に機首を向けて横断しつつカスピ海を通過します(図7)。
途中、カスピ海と黒海に挟まれたコーカサス地方に差し掛かると、眼下に雄大なコーカサス山脈が見えてきます(図8)。
また、そのすぐ直後にはトルコの東端にそびえる標高5,137メートルのアララト山が姿を現します(図9)。この山は前述したノアの箱舟伝説に登場する山で、神が大洪水を起こした後にノアの箱舟が漂着したとされています。
図6 957便の航路
図7 カスピ海
図8 コーカサス山脈
イラン・イラクの北端に差し掛かるころには夜の帳がおり、大地は黒一色に染められます。
着陸態勢に入った飛行機は徐々にその高度を下げていき、イスラエルの商都テルアビブの灯りが眼前に広がります。
予定より30分程はやく到着した957便は滑るように滑走路へと侵入し、無事なにごともなくメンバーはイスラエルへと入国する事ができました(図10)。
図10 ベン・グリオン空港
セリアさんの友人であり現地の日本人ガイドでもあるエミコさんと合流し、車で1時間くらい東にある首都エルサレムに移動。ホテルへにチェックインして早々にノックダウンしました。
明日は4,000年の歴史が積み重なったロマン都市エルサレムをまわります。
【2日目】4月27日(金)
エルサレムの朝。早朝はやや肌寒さを感じるものの、深呼吸をすると体中を心地よい街の空気が巡っていきます。
エルサレムでの拠点となるセルゲイパレスホテルは、1889年にロシア正教の巡礼者が宿泊するための施設として建てられました。 ホテルとしての改装がなされていますが、元々は砦としての機能も果たすべく周囲を建屋に囲まれており、中心部の庭園には様々な植物が植えられています(図11)。
ロシア正教の巡礼者はとても敬虔な信者で、食事の前に礼拝をするための教会も併せて建てられました(図12)。
現在、建屋の一部は開拓当時の写真などを飾る資料館になっており、1800年代後半に撮影された貴重な写真が数多く展示されています(図13)。
図11 ホテルの庭園(中庭)
図12 巡礼者が食事前に礼拝をおこなう教会
図13 1909年に北部の街ナザレへ移動する人々
ホテルのレストランで朝食
ホテルの庭園の一角に、30名程が入れるレストランがあります。簡易なビュッフェ式のメニューが並んでおり、少し軽めの物をチョイスして頂きます(図14、15)。
茶色いペースト状の物はフムスと呼ばれるヒヨコ豆のペーストです。イスラエル料理では定番の食品で、ピタと言うパンに挟み込んで食べます。白いペースト状の物はヨーグルトですが、甘みはなく少し粘性のあるクリームチーズに近い印象です。
図14 チーズやオリーブのピクルスなどが並びます
図15 軽めの朝食
エルサレムからテルアビブへ
朝食をとった一行は、専用車に乗って商都テルアビブへと向かいます(図16)。
エルサレム市街の中央を南北に走る国道60号線は、北部の町ナザレから中南部の町ベエルシェバを結ぶ幹線道路です。
この国道60号線は、1949年に終結した第一次中東戦争のグリーンライン(停戦ライン)に指定されており、ヨルダンとイスラエルの国境線となっていました(図17)。
図16 車で約1時間かかります
図17 60号線で分かれる新旧エルサレム市街
この道を境にして、東側は嘆きの壁などに代表される神殿地帯のある旧市街(旧ヨルダン領、現パレスチナ自治区)、西側はイスラエルの公官庁やビジネス街のある新市街です。
この停戦ラインは、1967年の第三次中東戦争(6日間戦争)の終結とともにイスラエル領となり、現在ではパレスチナ自治区との境にある主要道路として活用されています。
私たちの車は、右手にパレスチナ自治区、左手にイスラエルを眺めつつ北上し、市街の北を走る443号線からテルアビブのある北西へと進路を変えます(図18)。
図18 パレスチナ自治区との境に造られた隔離壁
パレスチナの住居
車窓には、丘陵地帯に立ち並ぶ石造りの家々が見えます(図19)。
パレスチナの人達が住む家は、家族が増えても良いように屋上部分が拡張する途中で止まっています。そのため、鉄筋などが見えた状態で放置されているという、一見すると竣工前の建物のように見えます。
また、屋上には飲料水を貯める黒いタンクが設置されています。
何故かと言うと、飲料水はイスラエルから送られて来るのですが、水道代を払わない人がいるためにちょくちょく水道が止まるのだそうで、一度タンクに水を貯めてから使用しているのだそうです。
図19 手前の柵には高圧電流が流れているそうです
商都テルアビブ
テルアビブは20世紀に生まれた新しい街で、元々は荒れ果てた砂丘しか無い土地でした。
都市人口は43万人ですが、都市圏を含めると100万人が住むイスラエル第2の都市です。
テルアビブの興り
1909年、テルアビブのやや南にあるヤッフォという古い港町に住んでいたユダヤ人の60家族が、住みやすいユダヤ人の町を造るために移住してきたのが町の興りです。
そして、1930年代のヨーロッパにおいてナチス・ドイツが台頭してくると、多くのユダヤ人が迫害を逃れるためにパレスチナ地域に戻って来ました。
その中には、ドイツのワイマールという都市にあった有名な建築学校バウハウスで、建築学を学んだ人達が多くおり、未だビルも建っていないテルアビブの街造りに大きく貢献しました。
今でも、そのバウハウス建築の特徴ともいえる白い建物がテルアビブには6,000軒ほど残されており、2003年には『白い都市』として世界遺産に登録されました。
テルアビブの由来
テルアビブ(Tel Aviv)とはヘブライ語の2つの単語からなっています。
テルは『遺跡』、アビブは『春(穀物が成る時期)』と訳されますが、意味としては『春の丘』と称されます。
これは、オーストリアのジャーナリストであるテオドール・ヘルツルの著書『アルトノイラント(新しくて古い国)』にて、ユダヤ人の帰属について書かれた一説が建国に繋がったと言われており、古い歴史を持つユダヤ人にとっての新しい国、つまり春の訪れを言い表しているそうです。
故ラビン首相の記念碑
故イツハク・ラビン氏はイスラエルの首相として、それまで険悪な関係だったアラブ諸国との和平を進めた人物です。
その功績によりパレスチナ解放機構(PLO)の議長であった故アラファト氏などと共にノーベル平和賞を受賞しました。
しかし、1995年11月4日にテルアビブで開催された平和集会の出席中に、ユダヤ人青年による至近距離からの銃撃を受けて亡くなりました。
その暗殺事件のあったテルアビブ市庁舎の敷地にはラビン氏を偲んだ記念碑が建てられており、年配の方や課外授業の学生などが訪れ、黙とうを捧げる様子が見受けられました(図20)。
図20 故ラビン首相が暗殺されたテルアビブ市庁舎前
パレスチナ自治区の実情
ガイドさんの話では、現在のパレ故ラビン首相が暗殺されたテルアビブ市庁舎前スチナ自治区の実情は日本で言われているのとはまた違う状況だと言います。
前に触れましたが、パレスチナとは地域の名称のことで、そこにはもともとユダヤ人も含む多様な民族が住んでいました。そのため一概にパレスチナ人と言っても、単一の民族を指しているのではなく、その地域に住む人たち全体をパレスチナ人と呼んでいます。
そして、パレスチナ自治区を治めているのがマフムード・アッバス議長の率いるパレスチナ解放機構(PLO)です。
しかし、同じパレスチナ自治区として有名なガザ地区はハマスと呼ばれる別組織(政党)が治めており、同じ名前の自治区でも全てに共同歩調をとっている訳ではないそうです。
そのため、例えばガザ地区でデモや騒乱があったとしても、ヨルダン川西岸を主体とするPLO側のパレスチナ自治区の人達にとっては、まったく別の出来事として捉えられている面もあるそうです。
一般市民としては、トップ同士が争っているために庶民生活に支障をきたしている。本当にパレスチナの人たちの事を考えているのか分からない、という意見も多くあるそうです。
カルメル市場
テルアビブの中心地のやや北側にあるカルメル市場は、庶民の生活・食料品を数多く取り扱う野外マーケットです。
今日は安息日(ルビ:シャバット)と呼ばれる休日にあたる日なので、15時前にはお店が閉まってしまうそうです。そのため、マーケットの中は人で埋め尽くされており、店員の掛け声も相まって、相当な活気を感じることが出来ました(図21~25)。
現地の味を確かめるため、フルーツジュース屋にてザクロジュースを買いました(図26)。
彩り鮮やかなザクロを半分に切り、搾り器に乗せて皮ごと果汁を絞ります。その味は、皮に含まれる渋みと合わさってグレープフルーツに近い印象でした。
図21 カラメル市場の喧騒
図22 ナッツを扱うお店
図23 バナナ一房で約200円(5.9シェケル)
図24 物凄く甘い匂いが立ち込めるゼリー屋さん
図25 スポーツショップ
図26 大きな実を絞ったザクロジュース
【3日目】4月27日(金)
午前中にテルアビブ市街を回ったメンバーはスポーツショップ、テルアビブの南にある港町ヤッフォへと向かいます(図27)。
図27 ヤッフォの位置
世界最古の港町ヤッフォ
地中海に面する港町ヤッフォは、古代から栄えてきた古い歴史を持つ町です(図28、29)。
その発祥は紀元前18世紀頃にまで遡ると言われていますが、一説にはエジプト中部のアマルト遺跡から見つかったアマルナ文書には、紀元前2600年頃にヤッフォという町の名前が出ているそうです。
図28 ヤッフォ市街の地図
図29 ヤッフォから眺める地中海
どちらにせよ、いま私たちの眼前に広がっている景色は、数千年前から栄えた世界で最も古い港町の1つであると言う事です(図30 )。
町自体はそこまで大きい訳ではなく、特にヤッフォ旧市街(ルビ:オールドヤッフォ)は歩いて回れるくらいの範囲に代表的な遺跡が集まっています。
図30 約1000年前(1036年)のヤッフォの様子
イスラエル料理で腹鼓!
築100年を超える街並みが連なるヤッフォ旧市街。その中心の広場には町のシンボルとも言えるオスマン朝の時代に建てられた時計台があります(図31)。
図31 オスマン朝時代の時計台
その時計台広場から伸びるイフェット通りに面したレストラン『アボラフィア』が昼食の会場です(図32)。
アラブ系のオーナーが経営するこのお店では、スタンダードなイスラエル料理が楽しめますが、特におすすめなのがシシュリック(図33)と呼ばれる牛・鳥・ラムの串焼きと、ひよこ豆のペーストのフムスです(図34)。
図32 砦を利用したお店
このフムスは単独で食べても良いですが、いくつもの小皿に乗せられた前菜類と一緒に、薄く焼いたパン「ピタ」に挟み込んでかぶりつくのが一番です(図35)。
前菜のラインナップは、ゴマとコーンのペーストのタヒーナ(図36)、ナスのペーストのババガヌーシュ(図37)、ニンジンのピクルスのトールシ(図38)、トマトとチリソースのサラット・トルキー(図39)、トマトと玉ねぎを塩とオリーブオイルで混ぜた物(図40)などです。
コーンマヨネーズ(ゴマも)がベースになっているので、日本人にとっては馴染み深い、また想像しやすい味だと思います。
その勢いで2~3個食べてしまい、お腹も丁度良く満たされます。しかし、そこでメインディッシュが登場すると、その時になってやっと今まで食べた物がただの前菜だった事を思い出します。
図33 串焼き「シシュリック」
図34 ひよこ豆のペースト「フムス」
図35 何個でもいけます
図36 ゴマとコーンのペースト「タヒーナ」
図37 ナスのペースト「ババガヌーシュ」
図38 ニンジンのピクルス「トールシ」
図39 トマトとチリソース「サラット・トルキー」
図40 トマトと玉ねぎのオリーブオイルかけ
地中海を臨むケドゥミーム広場
昼食後、オスマン帝国時代の要塞の建つケドゥミーム広場を目指して移動します(図41)。この広場は小高い丘の上に位置しており、周囲を見渡せるようになっています。
図41 ケドゥミーム広場
眼前には、陽光を浴びてエメラルドグリーンに輝く地中海が広がっています。
私は、生まれてから一度も色合い豊かな海を見たことがありませんでした。
一生に一度は、キレイな海を見てみたいと願っていましたが、いざ目の前にその光景が広がっている事に、何とも言えない想いが去来します。実は、燦然と輝く地中海を見たことが、この旅で一番感動した瞬間でした。
要塞のような聖ペテロ教会
ケドゥミーム広場に建つ聖ペテロ教会は、イエスの宣教時代に北部のガリラヤ湖で出会った弟子のペテロに縁のある教会です(図42)。聖ペテロは、このヤッフォを起点して伝道の旅に出たと言われており、その出来事を祈念して建てられたのが聖ペテロ教会だったと言われています。
図42 要塞のような聖ペテロ教会
願いの橋
聖ペテロ教会の真向かいに、願いの橋と呼ばれる木製の歩道橋があります(図43)。
ヤッフォに残る古い言い伝えを基にして、橋に掘られた星座を触りながら海を見ると願いが叶う、と言うスポットとして、地元のアーティストが手掛けたそうです。
図43 願いの橋
アンドロメダの岩
広場の西側には展望スペースがあります。そこでは、海にポツッと突き出たアンドロメダの岩と呼ばれる岩礁が目に入ります(図44)。
なぜアンドロメダの岩と呼ばれているのか? それはギリシア神話のあるエピソードに語られています。
図44 アンドロメダの岩
通りがかりの英雄に助けられたアンドロメダ
アンドロメダとはエチオピアの女王の名前でした。ある時、アンドロメダの母ネーレーイスが、海の女神たちに自身の方が美しいと自慢しました。
それを聞いた海神ポセイドンは怒り海の怪物をエチオピアに差し向けます。
ポセイドンの怒りを鎮めるため、アンドロメダは生贄として岩礁に括り付けられました。
アンドロメダが海の怪物に飲まれんとしたその時、通りがかりの英雄ペルセウスが現れて海の怪物を退治します。
この神話に出てくる岩が、ヤッフォにあるアンドロメダの岩だと言われています。
皮なめしのシモン
前述したキリストの弟子である聖ペテロが、ヤッフォでの伝道活動をする際に滞在したとされるのが、ヤッフォ旧市街にあるシモンの家です。
シモンとは、ヤッフォに住む皮なめし職人で、新約聖書の使徒言行録に登場しています。
ケドゥミーム広場の西側から、海に向かって下る細い路地を降りていくと「House of Simon」と手書きで記された入口があります(図45、46)。
当時の皮なめしの職業とは、社会的地位の低い人が就く仕事と言われており、それを表しているかのごとく目立たない位置に家はあるため、説明されない限りは見過ごしてしまう可能性が高いのではないでしょうか。
図45 狭い路地を降りていきます
図46 皮なめしのシモンの家
メンバーを襲うアクシデント
シモンの家を見学していた時、メンバーの一人が「財布がない!」と声をあげました。肩掛けバッグに入れていた財布が無くなっていると言うのです。
直前までの行動を見直して、お店や手洗いなどに置いてきたのか話し合いますが、スリに合った可能性が高いと言うことになりました。
財布には現金のほか、数枚のクレジットカードも入っており、不正利用がなされる前に対処しなければなりません。
まず、今まで歩いてきた場所を遡りながら専用車まで戻り、連絡のつく限りのカード管理会社へ電話をして、カードの利用停止を手続きします。
しかし、時差の関係で日本は夜の8時過ぎ。なかなか連絡がつかない時間帯になってしまいました。また、万が一の損失補償に必要となる『ポリスレポート』と呼ばれる書類を申請するために、ヤッフォの警察署へと向かいます。
ですが、今日は安息日と呼ばれる休日の初日のため職員の数も少なく、担当官も出払っているために帰署するのを待つことになりました。
その間、なんとかクレジットカード会社と連絡がつき、カードの利用停止を行うことが出来ました。ですが、いくら待てども担当官が戻ってくる様子はありません。4時間ほど待機したでしょうか。市街の東にあるもう1つの警察署に行くことになりました。
更なるハプニング!?
別地区の警察署でメンバーが盗難届の手続きをしている間、残るメンバーは夕暮れに染まる街並みを眺めていました(図47)。
図47 待機中に旧市街を散策
その時、あるメンバーが警察署前に設置してある自動販売機を見つけました。海外では珍しい自販機の存在に興味をひかれたメンバーは、コーラを買おうとコインを投入します。
ゴトンッ……とボトルが落ちた音はしましたが、取り出し口に商品は出てきません。どうやらボトルが自販機の中で詰まったようです。
運転手のアワッドさんが自販機を揺さぶるも、コーラは取り出し口に姿を現しません。
改めてよくよく自販機を見てみると、同じような事があって自販機に衝撃を加えた人がいたのか、表面が少しへこんでいます。
メンバーは「警察署の募金箱にでもなっているのか?」とジョークを囁いていました。
夜の帳が落ちかける頃、ようやく盗難届の手続きを終えたメンバーが警察署から戻り、一行はホテルへと帰ります。昼食以後あまり動かなかったせいか、お腹はまだ満たされた状態です。私は極めて遺憾ながら夕食は遠慮して休むことにしました。
明日は、イエス・キリストの生まれた町ベツレヘムを訪れます。
つづく