2023年9月 No.343
オペラ『蝶々夫人』を鑑賞してきました
院長 三好 彰
図1
お盆休診の最終日である8月18日(金)、イギリスから帰国していた娘とともにオペラ『蝶々夫人』を鑑賞してきました。 このオペラはイタリアの作曲家プッチーニが作曲した2幕のオペラで、幕末の長崎にて没落藩士の令嬢・蝶々さんと、アメリカ海軍士官ピンカートンとの悲恋を描いた物語です(図1)。
1904年のミラノ・スカラ座での初演以来(図2)、100年以上に渡って上演され続けている傑作で、原作はアメリカの小説家ジョン・ルーサーが書いた短編小説『蝶々夫人』が元となり、劇作家ベラスコが戯曲化した演目を観たプッチーニはただちにオペラ化の許諾を取りにいったというエピソードが残されています。
図2
今回、このオペラを演じるのは1934年に創設された藤原歌劇団ですが、その出発点はやはりプッチーニ作の『ラ・ボエーム』が初公演という縁があり、他にもビゼー作『カルメン』やヴェルディ作『リゴレット』などの舞台も手掛けた実力派の歌劇団です。
あらすじ
長崎で芸者をしていたお蝶さん(15)は、とある斡旋人の紹介でアメリカ海軍士官ピンカートンと出会い、家庭を持つこととなります。外国人であるピンカートンにとっては戯れの結婚生活であることも知らずに、蜜月の夫婦生活は3年間続きます。
その後、任地である長崎を離れることになったピンカートンは「駒鳥がヒナをかえす頃に戻る」と言い残して、乗艦リンカーン号に乗り込み日本を後にします。
来る日も来る日も、愛する夫ピンカートンが帰って来るのを待ち望むお蝶さん。
しかし何故か、二人を仲介した人はまったく異なる男性を勧めて来ることに、お蝶さんは「アメリカの法律では、夫婦は勝手に別れられない」と法知識を持って反論し取り付くしまがありません。実はこの時、お蝶さんのお腹にはピンカートンとの子どもがいたのでした。
やがて3年の月日が経ち、ピンカートンが再び日本へやって来ます。
それを丘の上で待つお蝶さん。
ですが、現れたピンカートンの傍には妻となったアメリカ女性ケイトの姿が……。
全てを悟ったお蝶さんは、ケイトに成長した子供をピンカートン自らが引き取りにくれば受け渡すと伝言を頼み、自身は持っていた短刀で自害して果てます。
そこに駆け込んできたピンカートンは、全てが遅きに失してしまったことに驚き、ただただその場に立ちつくしかありませんでした。
この作品を作るにあたり、プッチーニは日本の風俗、習慣はもとより日本女性の倫理観や考え方に加えて日本音楽の旋律をこと細かく教示してもらったそうです。
夫であるピンカートン主観からすれば、お蝶さんとの結婚は、外国人男性が周旋業者に依頼して一定期間だけ女性を妻にする『契約結婚』でした。劇中にもピンカートンが「999年契約を結んだ」と詠むシーンがありますが、当時の国際的なパワーバランスを如実に物語っているように思えます。
しかし15歳のお蝶さんには、そんな国同士のお話など関係ありません。彼女はピンカートンのことを信じ、彼が約束を守ってくれることを確信していました。ですが、その想いは完全に裏切られてしまいます。
お蝶さんが用いた短刀には、こう銘が打たれていました。
「名誉を持って生きられぬ者は、名誉を持って死ぬ」
当時の日本において、外国人男性を夫とし子供まで生んだ女性を受け入れる土壌は無かったのかも知れません。自分の名誉が守られないのであれば死して名誉を守るという、武士社会の根底にある思想が垣間見えてきます。
お蝶さんの愛を得た喜びと、それを失う哀しみと痛みを情緒あふれるソプラノで演じたのは、伊藤晴さん(名古屋音楽大学 非常勤講師)です。イタリアのミラノ、フランスのパリで研鑽を積まれた伊藤さんは、第9回藤沢オペラコンクール第2位、第82回日本音楽コンクール入選という成績を残され、モーツァルト作の『コジ・ファン・トゥッティ』や、その前作にあたる『フィガロの結婚』などに出演し、高い評価を得ています。
ピンカートン役の澤崎一了さんは、第30回ソレイユ音楽コンクールにおいて第2位及び最優秀賞を受賞。その後も数々のコンクールでトップを飾る活躍をされました。
2016年に藤原歌劇団に入団し、同年講演の『トスカ』のデビュー以来、『道化師』『ラ・トラヴィアータ』『カルメン』に出演し、2021年に『蝶々夫人』のピンカートン役を演じられています。その伸びるようなテノールと、伊藤晴さんの透き通るようなソプラノボイスが会場全体を包み込むように響き渡り、その歌唱に思わず聞き惚れてしまいました。
そんな私の脳裏に、今年5月に訪れた長崎の情景が思い浮かんできます。
蝶々夫人の家?を訪問
福岡での日耳鼻総会への参加にあわせて私は古い友人のいる長崎へ赴き、蝶々夫人の家と言われた南山手地区に残る旧外国人遺留地のグラバー邸に行って来ました(図3)。当時とは違い、周囲にはコンクリート造のビルや近代家屋が並んでいましたが、そのエリアに入った途端に時代は一気に遡り、趣のある木造西洋建築が建ち並ぶレトロな空間が広がっています。
その内の一つに、スコットランドの貿易商人トーマス・ブレーク・グラバーの過ごした旧グラバー邸があります。白い木造のルーバーの付いた観音開きの窓、日本建築とは違う高い天井、季節の花々に囲まれた館は、ゆったりとした空気が感じられます。
この場所の情景が、蝶々夫人とピンカートンの過ごした家とあまりに似通っていたことから、グラバー邸が蝶々夫人の家のモデルと言われたこともあるそうで、敷地の一角にはイタリアから寄贈されたプッチーニの像も据えられています。
実際には、戦後の復興期に長崎の町おこしの一環として、郷土史家である島内八郎氏が旧グラバー邸に蝶々夫人の記念碑を設置する計画が上がっていることを明らかにし、作中のイメージと似通っているとの意見が占めたことから、1948年8月10日付の新聞に「お蝶夫人の宅跡発見」という見出しの記事が掲載され、話題になったことがキッカケと言われています。
そうした真偽のほどはさておき、私は長崎港を一望できるこの景色(図4)の中で、愛するピンカートンを一途に待つお蝶さんの姿が見えたような気がしました。
図3 旧グラバー邸
図4 グラバー園から見る長崎港