2023年7月 No.341
開院20周年記念講演会録
【再】「もしも、あなたに耳の不自由な子どもが生まれたら……。全ての子どもには無念の可能性がある」1
院長 三好 彰
はじめに
2012年1月22日、当クリニックは開院20周年を迎え、同年6月20日には記念講演会を挙行することが出来ました。
その折、私の大先輩でもあり師匠でもあります田中美郷先生を講師にお招きし、「もしも、あなたに耳の不自由な子どもが生まれたら……。~全ての子どもには無限の可能性がある~」という演題にてご講演を頂きました。
田中先生は「難聴児療育(教育)ということは教え込むことではなく、その人間の内に潜むものを育むこと、その人にうずもれているものを引っ張り出すことだ」と言っておられます。まさに、それによってこそ、その人間は生まれてきた意味を再確認することになるのだと思います。
ここでは、当時の田中先生の講演内容について改めてご紹介させて頂きます。
講師のご紹介
田中 美郷(たなか よしさと)先生
院長による冒頭挨拶
はじめにことばありき。
聖書に出て来る有名な文言です。
人間は聴力を介して音声を情報として受け取り、思考を経てその内容を理解し、意味のこもった発話を行ないます。それがつまり会話で、人間同士のコミュニケーションの重要な手段です。
けれども聞こえが十分に機能していない場合には、音声を完全に理解することができず概念化できないために、思考力を発揮することができません。
なぜなら人間は概念を一度は言語に託して抽象化し、それを媒体として思考を進めるからなのです。
これらは、田中先生と私が師事した信州大学の鈴木篤郎先生の教えでもあります。
聴覚障がい教育の今と昔
医学と教育の橋渡し、フランス語で、Liaison(リエゾン)が今の若い人達には不得意なため、私は嘆いています。
私のライフワークにしてきた糧を、そして今日の動向についての見解をお話したいと思います。
私が医者になってから以降の聴覚障がい児の教育になるのですが、このような仕事に携わって50年余りになりますが、その頃、生まれていなかった人達がこの中に大勢いらっしゃるかと思います。
その頃と現在を比べますと、聴覚障がい児の教育(聾教育)は色々な面で、非常に大きく変わりました。その変化を私は、体験してきました。
私の生まれは、長野県の松本で、地元の大学、信州大学の卒業です。当時の耳鼻咽喉科学教室に入局したときの時の主任は、鈴木篤郎先生で、当時の教室の研究テーマは「小児の慢性副鼻腔炎(蓄膿症)」と「子どもの聴力検査法の研究」でした。私の主たるライフワークは、「子どもの聴力検査法の研究」の方でした。
信州大学・鈴木篤郎教室の最も重要な研究
鈴木篤郎教室の最も重要な研究は、「条件詮索反応聴力検査」(別名をCORテストといいます。)でした。これは、国際的に非常に有名になりました。戦後の荒廃からの復興が出来ていない時期に、このような国際的な研究が出来たことは、日本の誇るべき業績だと思います。
CORテスト開発の意義
CORテストの装置(図4)は、簡単な装置ですが、国際的に高く評価された理由はこの開発により聴力の量的測定が可能な年齢を生後6ヶ月位まで下げることが出来るようになったことが一番の要因だと思われます。
図4
それ以前は3歳以上にならないと難しいことでしたが、このことにより難聴の早期診断は可能になり、早期対策という意味では非常に重要な意味があります。
現在では、色々な検査法があります。しかし、聴力検査法といいますとCORを抜きにして、考えることが出来ません。原理的には完成されていて、これ以上のものは出ないかもしれません。
これは1960年に報告されています。私はそのころ医者になり、特殊外来を任せられ、この検査機器を使い診断をしてきました。しかし、診断をしてもその後、教育をしてくれるところがありませんでした。
当時、聾学校も幼児を対称にしていませんでした。ですから1、2歳で難聴と判ってもほとんどが放置状態になってしまいます。この事は、検査・診断を行っている側からすると我慢出来ない問題でした。
そんな中、病院で出来ることは無いかと模索した結果、思いついたのが、ホームトレーニングという方法でした。日常生活の中で、言語を育てていくという方式です。当時は、まだ1歳の重度の難聴児がどのようにして言語を獲得していくのかなどは、解明されていませんでした。診断が出来なかったので当然です。
そこで指導法を編み出すため、難聴児の言語発達も研究する必要があるというところから、教育の分野にも踏み込むきっかけになったわけです。
当時の聾唖者に関する社会の理解
当時の聾唖(ろうあ)者に関する社会の理解はどうだったかといいますと、医学分野でも〝先天性聾唖“と言う用語が使われていました。ところが『唖』は、聾があることにより、結果的に『唖』になってしまう。にもかかわらず、『先天性』という枠に入れるのはおかしいのではないかという議論が出てきました。
さらには、聾学校にも行かない聾の方々は、読み書きや手話もできない場合が多く、コミュニケーション手段は、ジェスチャーしかありませんでした。そのため、難聴者は、意思表現が難しく、社会的に精神薄弱(知的障がい)と思われ、レッテルを貼られていました。
ところが、知的障がいではありませんので、中にはこのように馬鹿にされることに立腹しても、表現方法を知らないため暴力的になってしまう場合もありました。そのため、精神分裂病(今で言うと統合失調症)として精神科病棟の鉄格子の中に閉じ込められていた人もいました。
当時から難聴は、遺伝であるということは知られていました。そのため聾の子が生まれると、社会から隔離される場合が多く、教育が受けられないという結果が生み出されてきました。それは、優生学思想の悪影響がもたらしたものだと思います。
昔の聾唖者(聾学校卒)の書いた詩
次のスライドは、私が聾唖者の厚生施設(厚生労働省の主管)の顧問を行っていた頃の当時の聾唖者が書いた詩です(図5)。
図5
感情は伝わってきますので、知的な遅れは感じられません。
しかし、日本語としての文法的な誤りがたくさんあり、社会的には通用しないのが現状です。この方は、聾学校を卒業した方なので、ここまで書く事は出来たという事です。
社会から隔離されていた或る聾唖者の例
次の方も同じく厚生施設でお目にかかった方の例です。
■女性(55歳)
■初診:平成2年5月21日
■家族歴:両親無く、妹の家族の世話になっていた。
難聴は先天性らしく9歳のとき聾学校に入ったが、50日で退学。妹の家では手芸を手伝っていた。就労経験なし。話すことはもちろん手話もできない。コミュニケーションはジェスチャーのみ。WAIS PIQ(知能指数)104。聴力は両耳110dB以上。
ご両親がすでに他界されているため生い立ちは不詳で、妹さんの家族に世話になっていました。この方自身も無教育でこの年齢になっていましたので、知る術もありませんでした。しかし、私が、書字で父母の名や兄の名を尋ねますと、「母○○さん50年(昭和50年らしい)10月1日死亡、兄○○19年不明戦死」と書きました。
誰に字を教えてもらったか? と書きますと「長女○○子60、次女○子53、三女○○子50」と書きました。
なぜ学校へ行かなかったの? の質問には答えられず、計算は加算のみ可能でした。
これは、この方がお一人になったときに、少なくとも自分自身について訴えることが出来るようにと、ご家族の方に教えてもらったのだと思います。
しかし私の質問に対して、的確に答えているわけではありません。
そこで、手話の出来る職員と共に、言語指導をしました。手話と同時に漢字を用いました。ひらがなと比較して、漢字は意味がわかります。
一年後に書いていただいたのが、この文章です(図6)。ここまで、書くことが出来るようになりました。
図6
もちろん日本語としては、まだ非常に拙劣な文章で、文法的な誤りがたくさんあります。しかし55歳の年齢で、ここまで書けるようになったことが驚きでした。
当時は、思春期以上になると脳が老化して、言語指導をしても駄目だということが通説でしたが、可能であることが立証されました。私自身に時間のゆとりがあり、丁寧な言語指導が出来ていれば、もっと良い文章がかけたと思います。残念ながら、その施設は2年しか居る事が出来ないので、限界もありました。このような悲惨な実態を私は見てきたわけです。
これは、言語習得能力を容積に例えた図です(図7)。
図7
聴覚言語としてのことばの雨が降って来たとします。健聴児の場合は、受け口も容器も広いのでほぼ100%溜まりますが、難聴児の場合は容器が同じ大きさがあるのにもかかわらず受け口が小さいため、溜まる量も少なくなってしまいます。
要するに聴覚障がい児の能力は、聞こえている子となんら変わらないのに聞こえないために言葉が覚えられないだけなのです。
補聴器や、人口内耳を利用することにより、受ける面積を広げることが出来ます。その分溜まる量も増やすことに役立ちますが、受け口の部分を広げることは、医学的に不可能ですので、専門的な指導が絶対に必要になり、それがあって、色々な可能性が生まれてくるのです。
知的障がいがある場合は、受け口が広くとも、容器の大きさが小さいので、結果溜まる量も少なくなってしまいます。
ろう児の場合は、手話での言語指導により、受ける面を広くすることが出来ます。聴覚言語ではなく、視覚言語としての情報になるからです。手話は、ろう者の言語ですので、手話による情報のほうが有利です。
しかし、日本手話といわれる手話でも日本語ではありませんので、日本語を教えるにはどうするか? その教育をしているのが『明晴学園』。手話の学校です。これからその成果が現れてくるのだと思います。
健聴児、難聴児、ろう児いずれも潜在能力としては同じですので、指導により社会的活動の機会は生まれてくるはずであるという前提で、私は、実践してきました。
つづく
【次話】「全ての子どもには無限の可能性がある 2」(No.342)