2023年7月 No.341
このたび宮城県耳鼻会報誌(87号)に『三好 彰:ブラジルでの花粉症(?)調査. 宮耳鼻87:, 2023』が掲載されました。
エッセイ『ブラジルでの花粉症(?)調査』
(宮城耳鼻会報 87号)
三好 彰(三好耳鼻咽喉科クリニック)
1.國井修先生
ペルー日本大使公邸占拠事件(俗称:日本大使館人質事件)を憶えておられるだろうか?
1996年12月17日に当時の青木盛久日本大使が各国の外交関係者を招いて開催していたパーティーの会場へ、ネストル・セルパ・カルトリーニ率いるセンデロ・ルミノソのゲリラ団(MRTA)が突入、約600名を人質に127日間立て籠もった事件である。
それが著者に何の関係があるのかって?
実はその折に日本から派遣された関係者の中で、医療班の責任者として参加していたのが、私の共同研究者の一人、國井修先生だったのだ(図1)。
ペルーの事件は当初日本側の平和的解決の要請で解決を目指したが、アルベルト・フジモリ大統領は1月7日から7本のトンネルを周辺の家屋から公邸地下まで掘削を開始した。
立て籠もりは長引き、人質が少しずつ解放されていったので、解決の4月には70名程度となっていた。
長い公邸内での時間を持て余し、人質とセルパたちはいつしかゲームや麻雀などを共に楽しむようになった。
そして127日目の4月22日、ペルーの軍隊がトンネルから公邸に突入し、人質を解放した。作戦名は「チャビン・デ・ワンタル作戦」。古代の大規模な地下通路で有名な世界遺産の名前である。
國井先生は強行突入の前後1ヶ月、医療班の責任者として現地に滞在した。
※以下、拙著の医学コミック「愛しのダニ・ボーイ」の解説より抜粋(図2)。
政府から派遣された医師団ですので、プレスからいろいろ聞かれるわけです。
現地でマニュアルを作っているんですね。
全員殺された場合、負傷者が出た場合、どこの病院に収容して、どのぐらい点滴、血液が必要か、血液も、現地の人の血液ですから、B型肝炎とか、エイズ(HIV)が入っていないかとか、全部調べているわけです。
我々は、日本政府側なので、いろんな意味で大使館には入れないのです。そこで、ICRCという国際赤十字委員会のメンバーが、中に入って診察して、得た情報をもらいます。
慢性疾患を持つ人質には、ICRCに薬を依頼して渡してもらいます。食事内容を全部チェックして、栄養が偏らないかを検討します。
また、保健医療面での、人質の家族とか企業の人達への説明など。
あのときは、「平和的解決」と、「強行突入」と、いう二つのシナリオがありました。
1.平和的解決の場合
(1)全員がその場で解放されるシナリオ。
(2)何人か解放されて、飛行場まで連れて行かれるシナリオ。
(3)その後、キューバなど第三国に行くまで、人質を連れて行って、そこで解放されるシナリオ。
いくつかのチェックポイントを決め、誰がどのような形で、人質の健康をチェックして、また、ケガ人をどのような形で搬送するかということも想定して。
2.強行突破の場合
死亡ゼロから、全員死亡という最悪のシナリオまで設定。
すべてを想定して搬送体制を考えるんです。すべてチェックしておく。
(1)どこの病院に、どのように収容するか?
(2)その病院の医療レベルは適切か?
(3)輸血用の血液のスクリーニングが、きちんとされているか?
(4)その血液の、供給体制は大丈夫か?
(5)また、病院のどこで話をすれば、無線が通じるか?
(6)巨大病院の構造はどうなっていて、死亡者、負傷者をどこに収容するか?
車も、四駆車からバスまで10台確保してたんです。
とにかく、何が起こっても、医療面での対応ができるように、準備をしていたのです。
でも、いざ、実際に強行突入が起こったら、大変なもんでした。
全くの不意打ちでしたから、完全なパニック状態でしたね。
どちらにしても、少なくとも30分前には、現地対策本部には知らされると思いました。
それが、本部のモニターで、突然ドカーン、ボカーン、黒煙モクモクでしょう。
マニュアル通りにはいかず、私と看護婦が乗るはずの車が来ない。
やっと、車に乗り込んだら、道が軍に閉鎖されて進まない。
歩道に乗り上げて、民家の庭を突っ切って、やっとMILITARY、軍病院にたどり着きました。
次々に運び込まれる人質の方の、全身状態から、傷の状態までチェックし、すべて無線で現地本部に連絡します。
そこから、日本の外務省、橋本総理に連絡しました。
ここで、突入前のシミュレーションが、とても役に立ちました。
結局、日本の人質は全員無事でした。
軽傷、無傷の方を日本大使館へ呼んで、全員健康チェックをし、入院した方は救急室で、どんな治療を受けて、現在どんな状況なのか、レントゲン写真なども見直し、全部チェックしました。
すると、病院では問題なしと診断されたのに、実際は、骨折していた、なんていうのもありました。
負傷者には、全て診断・治療内容を書いた診断書を、我々で作って渡したり、ペルー国内の病院を受診する際は付き添っていったり、退院した方には、傷の消毒をしたりしました。
精神科の先生が、数日来てくれたんですが、先生が帰った後、阪神大震災(この時も責任者でした)でもそうでしたが、精神的な問題は、災害後1週間以上経ってから来るんです。
パニックになる人がいて、夜遅くに往診に行ったり、時間をとって話を聞いたりしました。
ほとんどの人質が帰国するまでいました。
現地対策本部にも外務省や、警察庁など50人以上が詰めていたんですが、その人たちも心身ともに調子がおかしくなる人がたくさんいまして、そのケアもしていました。
127日間と長かったので、いろいろな話があります。
いつまでも、セルパが動かないのですが、これは、金も無いし、ゲリラ活動をするために、ジャングルにこもっていた者が、突然、大使館にやって来て食料に恵まれたものだから、帰りたくなくなったのですね。
セルパは、大使館に入ってから10キロ太ったから、このままコレステロールの高い物を食べさせて、心臓病で殺そうかって冗談になりました。
だんだん日本の人も飽きて来て、ジグソーパズルとかマージャンなどを差し入れても、マージャンは500回やっていましたので、飽きるわけです。
はじめのころは、ドンパチが何回かあったんで、隠れたりしていたのですが、後の方になるにしたがって、怖くなくなって来たんですね。
強行突入の時も、誰かが「伏せろ!」と、言ったら、マージャンのパイを伏せたって話があります。
本当に床に伏せた人の、マージャンのパイを、他のメンバーに、見られてしまったんだそうです。
解放後、國井先生は青木大使のお伴として日本へのフライトと車イスでの有名なタバコ会見に同席する。
「無理もなかったとは思うんですが、大使がタバコをスパスパ、お酒をガブガブでしょ? 止めて欲しかったな」
---以上、抜粋終わり---
そんなエピソードの國井先生と、私はどんなきっかけで知りあったのだろうか。
國井先生は自治医大卒業後に栃木県栗山村の診療所に勤務していたが、学生時代から国際医療に興味があった。そのご縁で仲間内では名の通っていた私に研究会での講演依頼の電話をくれた。その1991年12月からのお付き合いである。
以前掲載した『チベットにおけるスギ・ヒノキ植生と感作』の栃木県栗山村(現在は日光市)の光景(図3)と陽性率(図4)は國井先生との共同研究となる(図1)。
栗山村は平家の落人の居た村で、宿にはいろりを囲んでクマの毛皮がぶら下がっていた(図5)。
ちなみにこの陽性率は、各々の地域における小1、4、中1の被験者全員を対象に実施するので、本当の陽性率が判明する。もちろんその実施には大変な努力が必要となるのだが、この栗山村調査の論文で國井先生は国立国際医療センターに採用され、ペルーに行くことになる(図1)。そんないきさつがあった。
國井先生と次の調査を試みたのは、図3のブラジルでのことであった。対象地は、南緯10度ブラジル東北部のペルナンブッコ州レシーフェ市のマカパラーナ地方。日本からはロサンジェルス空港経由でサンパウロ空港、そして更に5時間のフライトで到達する地だ。
國井先生とも前もって打ち合わせ、ブラジルでも日本や中国と同じように調査ができると思い込んでいたのだが……。
1999年9月、意気込んで出かけたブラジルはさすが地球の裏側、日本や中国とは全く事情が異なる。
日本と中国では小中学生は義務教育で、小1は6~7歳、小4は9~10歳、中1は12~13歳で朝から学校へ行くのだが、ブラジルでは何歳から学校へ行っても良く、しかも朝・昼・夕刻の授業のどれに参加しても良い、とのことで、中には15歳の小学校1年生だって存在する可能性がある(図6)。
そんな訳で予期していた系統的なアレルギー疫学調査は実施不可能だったが、ブラジルまで出かけた私には大きな成果があった。
1つには國井先生の仲間のJICAとしての仕事を目の前で見ることができたこと。
写真のペルナンブッコ州立大学(図7)を拠点として活動していたのだが、JICAの目的はその地域の住民の保健衛生状況を改善することだ。そのため地域に分け入り、現地の衛生関係者と共に日本では考えられない衛生環境を少しずつ改善していく。
面白かったのは大学のJICAのたまり場には、だれかが持ち込んだ日本語の漫画雑誌『BIG COMIC』が山積みになっていたこと(!)。日本語の文字に飢えつつ現地で仕事に熱中しているメンバーには、さぞや嬉しかったことだろう。
これを持ち込んだメンバーの智恵に感心しながら、私まですべて目を通してしまった。
2つめには、國井先生の帰国後に教授として着任した東大の研究室で、東大の非常勤講師として私が講演させられそうになったこと(図8)
後述するジュネーブでの國井先生の活動のためにスケジュールが合わず実現しなかったが、惜しかったような気もしないでもない。
そんな経緯の後、次に國井先生に出会ったのは2011年3月11日の大震災の時であった。ユニセフに所属していた國井先生は石巻市の復興活動に来ていて、当院に寄ってくれた(図9)
私も石巻へと誘われたが、当院そのものも被災していたため、お断りせざるを得なかった。
その折のエピソードを私が幹事を務めていた日本医学ジャーナリスト協会(MEJA)の会報に投稿したので、以下をご覧頂きたい。
日本医学ジャーナリスト協会会報の國井修著『国家救援医-私は破綻国家の医師になった』(角川書店、図10)の書評欄より。
「ペルー日本大使公邸占拠事件。
あの忘れがたい事件の終息した4ケ月後。日本側医療班の一人だった國井先生をお迎えして、MEJA仙台例会が開催された。
ペルーの事件始め、世界中における緊急医療活動のお話しに、固唾を呑んで聞き入った私たちは、グラス片手に深夜まで國井先生を囲んだ。
くつろいだ國井先生からは、スーパーマンのような世界各地での活躍ぶりとは異なった、悩みつつ毎日を生きる真摯な素顔を感じ取ることができた。
私が國井先生から初めて電話をもらったのは、91年の12月のことだった。バブル期に『デカセギ』に来た在日外国人医療の、宮城県の現状を宇都宮での研究会で話して欲しいとの要望だった。
気が合ったのか國井先生と私はそれから、栃木県栗山村のアレルギー調査、ブラジル北東部のレシーフェ市におけるアレルギー調査、など各方面で共同研究を続けた。
それから日月を重ね、私が中国各地におけるアレルギー調査に逐われている間、國井先生はミャンマー軍政下でユニセフの業務に携わり、僧侶のデモ行進とそれへの迫害を目のあたりにした。
國井先生が医師を目指したときに憧れたシュヴァイツァーのアフリカには、ソマリア支援センターの責任者としてこの1月まで勤務した。
この間、東日本大震災の支援のために石巻市へ入り、仙台市の我が家で1ケ月ぶりのお風呂を楽しんで行かれたりもした。
もっとも我が家もその時はガスが通っておらず、ヤカンで数十回にわけて沸かした、そんな風呂ではあったが。
その國井先生が本年2月、ジュネーブの『感染症対策世界基金 戦略投資効果局長』に就任した。
“繰り返す歴史の愚かさとそれに翻弄される人間のいとなみについて、緊急対応的な医療活動だけでなく予防的な対応をいかになすべきか、最近はそちらに先生の関心が移っている。”
16年前のMEJAの仙台例会レポートに國井先生の講演のまとめとして、私はそう書いた。
今やジュネーブを中心とした、世界の保健戦略の中心人物となった國井先生。
そんな國井先生の活躍を、我がMEJAは関心を持って見守っている。
会員のお一人おひとりが、本書に目を通して頂き、MEJAにご縁のある方として國井先生に親しみを持って頂けるなら、うれしい。」
國井先生はその後、世界エイズ・結核・マラリア対策基金(世界基金)の戦略投資効果局長(図11)となり、発展途上国1国の規模の予算管理をする身となった。
それでも時々、私の元を訪れては、私が後援会長を務める前復興大臣の秋葉賢也後援会のために講義してくれたりしている。
次はどんな話を私に聞かせてくれることになるのか、とても楽しみにしている。
※記事『世界を駆ける‼ 國井修Dr.の特別講演』(3443通信より)
2.羽根田 潔 先生
1994年の年末、私はこんな内容の手紙を受け取った。
「これまで大学で医学の研究に携わって来たのですが、ご縁があってブラジルで仕事をすることになりました。色々とブラジルについて教えて下さい」
そんな内容だった。
私は山本壮一郎元宮城県知事を会長とする『宮城ブラジル友好協会』に属しており、副会長を務めたこともあったので、そのご縁で手紙が届いたらしい。
会って話を聞くと、羽根田先生はそれまで東北大胸部外科の助教授を務めていたが、JICAの勤務でブラジル北部南緯3度のセアラ州フォルタレーザ市へ行くという。後述するお産のプロジェクトに関与することになったそうである。
私が相談に乗るまでもなく、JICAでは助産婦はじめ全てのスタッフが揃って協力体制を作るのでご本人がそこまで案ずることはないのだが。
羽根田先生の在籍した胸部外科学の毛利平教授と私とは自衛隊の『オピニオン・リーダー』(図12)という一種のモニターのメンバー同士で、富士の裾野で行なわれた総合火力演習や、隊の歴史を辿る研修で八甲田山に行った際などに宿が同室だったので話を聞いてみた。
すると毛利先生は「あの時は(教授引退の時)、我々の知らないところで話が進んでいて、あっという間に対抗馬に教授職をとられてしまったんだよ。本当に羽根田君には悪いことをした」と言っておられた。
そんな訳で、私は國井先生とほとんど同時期に羽根田先生がフォルタレーザ市で行なっていたお産のプロジェクトにも間接的に関わることになってしまった。
ちょうどこの話題について私がfmいずみで話していたシリーズの中に脚本があったので、次に記す。
---以下、ラジオ3443通信より---
An.(アナウンサー)
三好先生、前回はブラジルの南緯3度の地域つまりフォルタレーザ市でのJICAの活動に、先生が協力したときのお話でした。
本日はその詳細と、サンバについてのおもしろい話題を伺えるとか。
Dr.(著者)
このJICAのプロジェクトは、ポルトガル語で"Projeto Luz" つまり“光のプロジェクト”という名前です。
An.
“光のプロジェクト”。なんてステキな名前でしょう。
まるで、人間が輝いて生きる。そんな目的のための計画じゃないかって、江澤はそう思いました。
Dr.
このラジオ3443通信は、話題が世界中のしかも紀元前から未来にまで至るお話ですけど、一応私の専門である耳鼻咽喉科の病気がメインです。
でも今回のテーマは、人間が生まれることの科学で、直接耳鼻科とは関係ありません。とはいえブラジルと私との関わりをご説明するためには、欠かせないエピソードの数々ですので、耳を貸してください。
An.
人間が生まれると言うと、出産のお話でしょうか?
Dr.
“光のプロジェクト”のことなんですけど、ね。ブラジルでは出産のことを、"dar a luz"つまり“光に与える”って言い方をするんです。
An.
それも、とっても良い表現ですね。
Dr.
それでですね。今でこそ日本は、世界一衛生的な環境で生活一般から医療に至るまで、細菌感染とは無縁な状況です。
でもそれは比較的近年のことであって、日本でも昔から現在ほど清潔な住環境や医療環境が、整っていたわけじゃありません。
An.
出産も、そうだったんでしょうか?
Dr.
前にもお話ししましたように、感染症を引き起こす細菌が発見されたのが、19世紀の半ばでしたから、それ以前は消毒や滅菌といった基本的衛生概念がなかったんです。
出産についても、細菌感染の予防すらできていなかったので、産褥熱つまり出産時の感染で亡くなる母体が少なくなかったんです。でも清潔な状態をキープしてやれば、それは無くなりますので、それ以降は出産を巡る母子の健康状態は一変しました。
An.
紅茶の流行とロンドン市民の健康状態、みたいなお話なんですね(笑)?
Dr.
ただしそれは、現在の日本だから実現可能な一面もありまして。
ブラジルのような広大な土地で、十分な医療環境が整備されていなかったら……。
An.
衛生的な、母子の健康が保障された出産、だけじゃないかも。
Dr.
まして気候も、ブラジルはもちろん、日本のような温暖な土地じゃありませんから。
An.
熱帯気候でしょうから、ね。
Dr.
当然医者の数もブラジルでは不足してますし、看護師はさらに人数が少ないんです。
An.
人手不足なんですね?
Dr.
妊婦が出産時に、誰にもかまってもらえないばかりか、医師がいても自然に生まれてくるのを待てず、切開して出産することが当たり前になっていたんです。
An.
それもどうなんでしょうね(笑)? あんまり自然な状態じゃなさそうな感じ。
Dr.
その体制の打開に尽力したのが、JICAの“光のプロジェクト”だったんです。
An.
具体的に先生、それはどんな?
Dr.
耳鼻咽喉科領域のお話じゃないので、十分な説明かどうか、不安ではありますが。
ブラジル流じゃなくって、日本古来の伝統的な出産法。つまり出産予定日前から母子の十分なケアを行ない、自然な出産をスムースにヘルプしてやる、助産婦さんの積極的な活用とそのための助産婦さんの育成。一言で言えば、それがこのプロジェクトの骨子です。
An.
地球の真裏で、日本式の古(いにしえ)からの知恵が、十分に活用されたんですね!
Dr.
出産のそのときだけじゃなくって、前後もしっかり母子のケアをすることと、不自然な出産ではなくごく自然なそれがなされるよう、周囲がチームを組んで協力すること、ですね。
そのために、母子との人間的な関係作りに非常に力を入れます(図13)。
出産も、そのときだけ別の部屋を準備するのではなく、入院したその部屋でできるよう工夫されてます(図14)。
実はそんな出産環境の作成に、仙台市の建築家がブラジルまで行っているんです。
An.
そんなことがあったんですね!
先生も、お力添えしておられたんでしたよね?
Dr.
私はまず、そのプロジェクトの中心になった、当時東北大学の助教授だった医師と、JICAの担当者との間に立ちました。
それに、現地の日本人関係者とのつなぎ役を務めたり、ブラジルで関係者と会ったりしました。
ちょうど私も、ブラジルでのアレルギー調査を予定していた時期だったので、それもタイミング的に良かったのかも知れません。
An.
それにしても、南緯3度なんてきっと暑いんでしょうね?
それこそ情熱の音楽であるサンバが、すごく似合う地域なんでしょうね。
Dr.
南半球と北半球とでは、夏と冬が逆ですから、ブラジルを訪問するのには、現地が少しでも涼しい冬、つまり日本の夏に出掛けるんです。
An.
夏・冬が逆転しているんですものね。
Dr.
おまけに日本から、地面をまっすぐに掘り進むとブラジルに到達するので。ブラジルは私たちの立っているこの真下に存在するんです。
An.
そうか! 時差は12時間。昼と夜も完全に反対ですね。
Dr.
そんな思いをして、三好先生はどうしてブラジルへ行くんですかって聞かれるんです。“サンバ”でも見に行くんですかって。
An.
実は先生は産婆さん(笑)、つまり助産婦を見に行ったんですよね!?
Dr.
江澤さんのギャグで本日は“落ち”です。
Dr.・An.
ありがとうございました。」
※ラジオ3443通信122話「ブラジルのさんば」(2013年7月9日OA)
実はこのフォルタレーザ市でも、レシーフェ市と同様のアレルギー調査を羽根田先生と企画していたのだが……。
國井先生との調査でブラジルの状況が判明したので、それはすっかり中止となってしまった。今にして思えば返すがえすも残念でならない。