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2022年11月(No.333)

 

幕末の英傑? 長岡藩家老”河井継之助”を追って

秘書課 菅野 瞳


はじめに
 9月も半ばだというのに、真夏が一日戻ってきたような暑い日に、当院の院長が福島県南会津郡只見町にある「河井継之助記念館」を訪れました(図1~3)。

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 図1 福島県只見町にある河井継之助記念館

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 図2 記念館の地図

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 図3 すぐ傍には只見川が流れています。再開した只見線もすぐ傍を走っています。


 院長が此方に足を運んだきっかけは、6月の中旬より上映されていた、役所広司さん主演の映画『峠』の鑑賞にあります。
 この映画の原作者は、読書というものが大の苦手である私でも、そのお名前だけは存じている司馬遼太郎先生です。『峠』(図4、5)というこの著書は、幕末の風雲児と称される“河井継之助”にスポットをあてた長編小説(上中下)です。
 院長が是非彼を記事にしましょう! と惚れ込んだ長岡藩家老・河井継之助を理解するために読書の秋! まずは長編小説の読破です。

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 図4 司馬遼太郎作『峠』(上中下)

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 図5 役所広司主演の映画版『峠』


幕末期の日本
 歴史にとても関心がある方は、幕末の時代と戦国時代をより好む方が多いと言われます。私は特段歴史を好むわけではないですが、この時代が人気な理由は分かります。それはまさに、この時代の背景にある下剋上だと思います。

 幕末より前の時代は、人は皆生まれた瞬間に人生が決まっていたと言っても過言ではありません。もっと分かり易く言うならば、町奉行の高い地位に生まれなければ、生まれた子供はその地位にはつけない。また親の職業を継ぐ以外の選択肢がないとも言えます。幕末までの時代はピラミッド型の社会そのものであり、自分の人生を自分で切り開くことは出来ませんでした。

 しかしながらこの戦国と幕末の時代は、ピラミッドの下方から逆転の可能性を窺えるチャンスの時代(下剋上)であったため、心惹かれる方が多いのではないかと思います。
 幼少時から自由な発想をし、封建の枠にとらわれずに思うがままの生き方をする反面、道理や義理を大切にし“最後のサムライ”と称される河井継之助に寄り添ってみたいと思います。

幕末志士の河井継之助
 新潟県中越地方の最大都市である長岡市で生を受けた継之助は、幼い頃は剣術や学問に励み、25歳で江戸に出てくると、佐久間象山の下で蘭学や砲術を学び、後に長岡に戻り家督を相続しても尚、勉学に励むことを止めず再度の遊学に出発します。
 中級武士の長男として生まれた継之助は、異数の昇進を遂げ長岡藩の上席家老となり、藩政改革を断行します。藩の財力を養い、雄藩も目を見張る近代武装を成し遂げました。

 丁度この時代は、江戸幕府の末期——つまり幕末の時代であり、アメリカのペリー提督が日本への開国を求めて黒船で来航した時期でもあります。
 黒船来航によって動き始めた幕末の日本は、薩摩藩・長州藩が主導しての倒幕への道を進み始めます。
 倒幕か佐幕かの二分された世の中にあって継之助はそのどちらにも与せず「幕府軍には世話になった恩があるが、官軍(新政府軍)を敵にすれば、長岡の民が無事では済まない。しかしながら、官軍に加勢するのは人の道に反する。故に長岡藩はどちらにもつかずに長岡藩は俺が守る!!」と、ただひたすらに民のことを想い続けた男、それが河井継之助という人物でした。

 1986年(慶応4年)5月2日、迫る新政府軍に対して継之助は“長岡の地を、民を守りたい”という一心で、慈眼寺(図6)にて非戦の望みをかけた談判(小千谷談判)に臨みました。
 継之助は、面会した新政府軍軍監の岩村精一郎(23)に対して「官軍に加勢することは出来ないが、敵にもならない代わりに長岡藩内に侵入せず通過して欲しい」と訴えます。しかし継之助の決死の訴えはまるで聞き入れてはもらえず、談判は僅か30分で決裂してしまいます。

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 図6 慈眼寺に保存されている会談の間


 世の中には、どんなに願っても、力を尽くしてもどうにもならない、どうにも出来ないことがあります。長岡を守りたい一心で、自らの首を差し出すことも厭わず、非戦を切望した継之助の無念さと悔しさを想うと、心が痛みました。
 継之助による談判の決裂後、長岡藩本陣に戻った継之助は、道義に基づいた社会のために藩をあげて戦おうと演説し、長岡藩士の士気高揚を図ります。
 その際、継之助が藩士を鼓舞したという名言があります。

「人間とはなにか、ということを、時勢に驕った官軍どもに知らしめてやらねばならない。驕りたかぶったあげく、相手を虫けらにように思うに至っている官軍や新政府軍の連中に、いじめぬかれた虫けらというものが、どのような性根をもち、どのような力を発揮するものかをとくと思い知らしめてやらねばならない。長岡藩の全藩士が死んでも人間の世というものはつづいてゆく。その人間の世の中に対し、人間というものはどういうものかということを知らしめてやらねばならない」という言葉です。

“知らしめる”という言葉を3度も使い、両軍を唾棄すべき存在だという想いが、溢れんばかりに感じられました。

 軍事総督となった継之助は、藩軍690人を率いて官軍5万人に臨戦します。官軍は当初、長岡藩はすぐに降伏するだろうと睨んでいましたが、長岡藩は継之助の先見の明で、当時日本には三門しかなかったというガトリング砲のうち二門(図7)と多数の洋式銃を買い入れており、善戦します(図8)。

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 図7 当時最新鋭のガトリング砲(連射可能な回転式多銃身砲)

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 図8 北越戊辰戦争時の河井継之助の足跡


 しかし、誰しもが分かる圧倒的な戦力差で藩軍は次第に劣勢となっていき、ついに長岡藩は力尽きます。長岡の町は8割が焼き尽くされ、市井の人々も巻き込んだ戦は、双方に多数の死傷者を出す結果となり、継之助は長岡を離れ、会津で再起を図るよう進言を受けます。
 ですが、この戦いで左膝下に受けた貫通銃創により重症を負った継之助は、傷口の化膿がひどくなり、会津へ辿り着く前に只見村で絶命します(図9)。享年42歳でした。

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 図9 河井継之助の墓


院長のご先祖・三好監物との共通点
 著書『峠』に描かれた河井継之助の半生を辿っていくと、院長のご先祖である“三好監物”(図10)が思い出されます。

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 図10 北海道白老町の仙台藩元陣屋資料館にて
 (左から、アイヌ族長、七十七銀行初代頭取の氏家秀之進、院長、三好監物)


 仙台藩士である監物は、戊辰戦争の初戦である<鳥羽・伏見の戦い>の後に会津討伐の詔勅を受け帰藩しますが、倒幕派(官軍)と佐幕派(幕府軍)とで関係が悪化した仙台藩内において、監物は時代の潮流が倒幕派にあることを肌で感じ、新政府軍に帰順しようと進言します。
 しかしこれが、体制維持を図る佐幕派に難詰される要因となり、監物が官軍と内応することを恐れた藩は、監物を処断しようと動き出します。
 そこで監物は武士のケジメとして、地元である藤沢町黄海で自刃するのです(図11)。
 歴史の荒波を、自らに与えられた使命を、熱意をもって遂行し駆け抜けた人物です。

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 図11 岩手県藤沢町黄海にある三好監物の墓
     ※「北海道新聞の取材を受けました」(2021年10月 No.320)


時代の評価
 監物同様、運命の負を甘受し、損得勘定だけでなく、正しく美しく生き、武士であることのみに終始した河井継之助……しかしながら、河井継之助の後世の評価が分かれることを、皆さんはご存知でしょうか?
 武士として正義を貫き通した誇り高きサムライという一方で、継之助が官軍と戦う道を選んだが故に、長岡は焦土と化し多くの領民の命が失われたという声もあります。自らの命の火が消えるその時まで、戦うのが当たり前であった武士としてあり続けた継之助の熱い想いは分かります。

 しかし、継之助と対面した岩村精一郎という若侍。そして、仙台・米沢両藩による会津藩の救済嘆願を無視して強硬姿勢を崩さなかった奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵(長州藩)という愚か者の存在さえ無ければ、歴史はこうでなかった可能性が非常に高いと想像されます。
 歴史のいたずらとは云え、そんな運命に翻弄された当時の人々の運命について、つい想いを馳せてしまいました。

戦いの意味とは
 また統治者たちが、筋を通そうとして起こした戦が、果たして本当に民衆のためになるのかという疑問を、現代の私たちに投げかけられているような気もしました。

 信念を貫き徹底抗戦をする姿は、今日においてはウクライナ・ロシア戦争を想起させます。
 ロシア軍の理不尽な暴力に対し、徹底して戦う姿勢を貫き続けるウクライナのゼレンスキー大統領は、一気に民衆の英雄となりました。
 しかしながらこの抗戦に際し、ウクライナでは多数の死傷者が出ているのだということを忘れてはなりません。個々の命を懸け、贖うほどの事が何かあるものでしょうか?私には、終始この疑心が拭えませんでした。

 また、ロシア軍のウクライナ侵攻により、安全保障環境が変化する中、中ロを中心とする旧共産主義圏と、欧米を中心とする自由主義圏に二分化した現状は、継之助が活躍した当時の状況と酷似しています。二分化された状況下で中立を目指すということが、いかに困難なものなのかを考えさせられました。

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図10

図12
 河井継之助記念館の絵ハガキ

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