2022年8月(No.330)
訪れた人たち
~中川 大介さま~
(元 北海道新聞 報道部長)
左から中川さま、勅使河原さま(河北新報)、院長です。
はじめに
3443通信No.320の「北海道新聞の取材を受けました」でもご紹介した、北海道新聞苫小牧支社の報道部長であった中川大介さまが来仙されました。その折、院長のご先祖である三好監物の出身地である岩手県藤沢町黄海を訪れ、その旅のミニコラムを書いて頂きました。
以下、中川さまのミニコラムです。
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三好先生との出会い
去る6月13日、仙台市泉区に三好彰先生をお訪ねし、親しく懇談させていただいた。
三好先生とは、私が北海道新聞社に記者として在職中の2021年夏、先生のご先祖である幕末期の仙台藩若年寄、三好監物をめぐる取材を通じてご縁をいただいた。
三好家と北海道
三好家と北海道(蝦夷地)の縁は深い。監物は安政年間に蝦夷本島から国後島、択捉島まで踏査し、幕府から東蝦夷地の警衛を命ぜられた仙台藩の元陣屋(現代における司令部駐屯地)を胆振地方の白老町に築くよう上役に進言した。さらに2代目の御備頭(駐屯部隊の司令官)として白老元陣屋で1年間勤務し、胆振、日高、十勝、釧路、根室地方から択捉島に及ぶ広大な仙台藩の警衛地に目を光らせた。
監物の次男清篤は父に従って白老元陣屋で在勤し、明治初期には六男清徳とともに北海道日高地方の開拓に尽力している。南下するロシアへの防備上の要地であり、経済産業的にも大きな可能性を秘めていた蝦夷地・北海道の歴史に、三好家のご先祖は深い足跡を刻んでおられるのである。
現在、白老では元陣屋の遺構が史跡として保存され、監物らの遺した史料を展示する立派な資料館が設置されている。地元住民は例年夏、元陣屋で在勤中に落命した仙台藩士の供養祭を営み、故郷を遠く離れ厳寒の地で任務に身命をささげた武士(もののふ)たちの霊を慰めている。
私はこのような歴史を取材して三好先生を知り、21年にオンラインでインタビューして北海道新聞で記事を書いた。そして三好先生が長年、耳鼻咽喉科のない白老で診療を行われて地域医療に貢献されていることを知り、このたび直接お会いする機会を得て、ご先祖のことなどについてお聞きしたのであった。
三好監物の魅力と歴史の妙
私が監物という人物に惹かれるのは、その人生の航跡が劇的だからである。
監物は蝦夷地在勤を終えてさらに上の身分に取り立てられ、藩の京都屋敷詰めを経験して時代の趨勢が「勤王」にあることを知る。明治新政府への帰順と会津藩征伐を藩内で主張したが、会津救済を主張する勢力との対立の中で立場を危うくし、故郷・黄海(現岩手県一関市藤沢町)に帰り、追っ手が迫る中で潔く自刃する。
監物と対立して会津救済を訴えた勢力の中には、藩校養賢堂の指南頭取を務めた玉虫左太夫がいた。玉虫は遣米使節に選ばれて世界一周を経験し、海外事情に通じた俊才だったが、薩長を中心とする勢力が進めるあまりに急進的な変革には否定的で、穏やかな体制変革を訴えた。会津征討を「長州の過去の怨嗟に基づく過剰対応」とみなしたのだろう。
その玉虫もやがて、奥羽越列藩同盟が新政府軍に敗れ、仙台藩も恭順せざるを得なくなる中で立場を失い、自刃に追い込まれる。豊かな知識、見識を備えた仙台藩の指導層であった監物、そして玉虫が、真逆の立場をとりながら、どちらも自決に追い込まれたというドラマ性が私を強く惹きつける。
実はこの二人、白老の元陣屋で安政年間に邂逅しているのである。
三好監物が白老に在勤していたころ、玉虫は箱館奉行に付き従って蝦夷地を巡検し、「入北記」というすぐれた記録書を残している。玉虫は白老元陣屋にも立ち寄っており、「入北記」には監物に関する言及がある。のちに自刃に追い込まれる二人の人生の航跡が、蝦夷地・白老で瞬時、交わっているのである。
このあたりの話をいずれ何らかの形でまとめたいと考え、このたびの6月の仙台訪問時には黄海まで足を伸ばし、監物が自刃した屋敷や監物の墓碑などを見て歩いた。悠然と流れる北上川のほとりで生まれ育ち、そこに眠る監物の人となりに思いを巡らせながら。そして、仙台市青葉区本町にあった監物の屋敷跡(旧三好耳鼻咽喉科)も訪れた。
監物も玉虫も、藩の存続を何より願った心に変わりはあるまい。組織に生きる者として、それぞれの正義を追求したのだろう。時代の荒波は二人を遠く隔てたが、ともに明治という新しい時代を生きることを許さなかった。
三好彰先生からは、幕末の仙台藩の動きを詳述した貴重な書籍を拝領した。これらを手がかりに、幕末の蝦夷地に足跡を残した二人の人生の航跡を記してみたいと思っている。
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中川さまとの懇談の中で、北方四島に関するお話を伺いました。
当時、主な交通手段は徒歩(馬)もしくは船でありました。勿論ほぼ未開拓の蝦夷地(北海道)には十分な街道は整備されておらず、警備隊はアイヌ族のガイドの元で原野や森林をかき分けての移動を余儀なくされました。
ですが、特に困難だったのが、荒々しい北の海の先に浮かぶ北方四島への航路開拓でした。
北の大国ロシアの帆船が往来するようになった北の海で、領土を守ることは江戸幕府の喫緊の課題でした。
幕府はまず、廻船問屋として名を馳せた高田屋嘉平(たかだや かへい)に、未知の海域である国後・択捉島への航路開拓を命じました。
天候変化が激しく海流の流れも速い海を渡り、持ち前の探求心と大胆さで乗り切った高田屋嘉平は3つの航路を見出していくつもの漁場を開いたそうです。
現在、残されている文献によると3つの航路とは、
① ネモロ(現 根室港)⇒ 水晶島・志発島(歯舞群島)、色丹島、国後島トマリ。
② 野付半島の先端キラク村(現 標津町)⇒ 水晶島・志発島(歯舞群島)。
③ 野付半島の先端キラク村(現 標津町)⇒ 国後島トマリ、国後島アトイヤ ⇒ 択捉島タン子モイ。
から類推されるそうです(白老町仙台元陣屋資料館より)。
諸外国との交わりをほぼ立っていた江戸幕府。
外海への航海技術に乏しい中、まったく未知の航路を見つけるという命懸けの難事業の困難さは想像するに余りあります。
こうした先人たちの勇気と行動力が、今日の生活の礎になっていることを改めて思い起こさせる貴重なお話を頂きました。
三好監物の生家を訪ねて
2022年7月21日(木)、私は5代前の先祖・三好監物の出生の地であり墓碑のある岩手県藤沢町黄海の三好神社を訪れました。
この日の前日は東北地方は大雨に見舞われ訪問が危ぶまれましたが、日頃の行ないのお陰(?)か好天に恵まれました。
緑深い黄海の山腹にひっそりと佇む『三好監物墓』の看板が掛けられた、風雨をしのぐためのお堂。その中に大きな石碑が安置されていました(図2~5)。
図2
図3
図4
図5
碑に彫られた文の訳は以下の通りです。
明治二年天皇の仰せにより、仙台藩知事伊達政宗敦が三好清房(監物)の事を報告した。天皇は讃えて祭資二百を下賜した。宗敦涙して、岡 修に言う。
「清房は当に賊焔を衝いた」と。
天皇は言う。
「義を守りて屈せず、ついに凶徒に倒される事になった。その忠義の事はいつまでも人臣の鑑である。ましてや、おろかな家臣にとってはなおさらである」と。
天皇が褒めた事は清房一人のものでなく、わが藩の栄典だ。その忠義を表彰し、これを永久に伝えたい。
岡は言った。
「清房の事を発端として岡は獄に入ったが幸い赦免されて今日にいたっている」だから、清房を表彰するのは岡の務めである。
さきに将軍徳川慶喜が政権を奉還した。朝廷は薩摩、土佐等の藩を招いて、大義を尋ね伊達慶邦を呼んだ。我が藩は僻地にあり、上方の事情に疎く、異論紛糾して政治がまとまらない藩は始祖以来天皇家の為に働いた。
今日の事、一人関西の藩だけに任せてよいのかと。藩主慶邦の京都入りをすすめた。慶邦はまず清房に命じて兵隊を率いて禁門を守らせた。その後、鳥羽伏見の戦いに会う。方々から武士が天皇のひざもとに集まり、幕府を征伐した。そして朝廷は、我が藩を一方の雄として会津討伐を命じ、九条通孝を奥羽鎮撫使、沢為量を副督とし、醍醐忠敬を参謀として海路を東北に進めた。清房兵隊を率いて三人を守り、興を程して帰り、復命した。
これより先に、執政坂英力が江戸より帰り宣言した。
「薩長の二藩は明治天皇の幼いのを利用して徳川政権を奪おうとし、その心計り知れない」と。
大衆はその言葉を信じた。清房は大義を指揮し、方々で弁論して三使を藩に駐屯させた。賛同して藩主慶邦は周りの諸藩を促して会津を討つ。士気が大いにあがった。しかし、英力以下ひそかに徒党を組み、会津・庄内の二賊と通じ流言を広め、人心を扇動する。そして清房は正義に固執していると悪口が広まった。清房は争い難きを知り、病気を理由に職を去り、反対派ははばかることがなくなった。
ついに奥羽越列藩同盟を用い官軍に抵抗する。清房国事をあきらめて、領地の黄海に帰った。すでに官軍は白河、磐城を降伏させて、列藩同盟敗退の兆しを見て、大衆は恐れた。幕府側についた藩内の派は清房の再起を恐れ、兵を清房に向かわせた。清房は逃げられない事を知り、
「ここにきては退くわけにはいかないので意を決断する」と母に別れを言う。
母上は、
「天皇に殉ずるのに恨むことはない」と。
清房は醍醐参謀に遺書を作り、三子に言う。
「官軍は境にいる。これをもって祖母のために命を請うべし」と。
家族は泣いた。清房は落ち着いて酒を命じ、書画を書き、和歌を詠み、談笑し、思いのままに過ごす。夜中に屏風を立てて自刃した。息未だ絶えず眼光鋭く言う。
「凶賊の連中は勅命の何たるかを知らず」と。
ついに絶えた。
実に明治元年八月十五日なり。佐幕派は死を疑い、遺体を臨検した。また、清房と思想を同じくする者たちを牢に入れた。すでに勤皇派は強力になり、伊達慶邦を説得した。慶邦は初めて幕府崩壊を知り、英力を逮捕し、天皇の前に謝罪し、清房の言い分を聞かなかった事を悔やんだ。今では及ぶところではない。ああ当時の皆の声を確かめて、清房に任せて会津討伐をすれば、反乱を鎮め、国のための兵にすることができた。しかるにその言葉を用いず、その志を受けず、苦しめてしまった。そもそも我が藩は東北の雄である。しかしいったんは佐幕派に傾き誤る所となった。一人清房あり。堅く大義を守り、崩れることなく身をささげた。少をもって千を天下に示した。
清房字は顕民・監物と称す。先祖は阿波の出身。十一世の祖義元は銃術を善くし、大阪で藩祖に出会い、五百石の禄を得た。祖は義徧、父は清明、母は菅生氏である。清房は文化十一年十二月二日に生まれる。幼い時父を亡くす。母から義をもって教えられ、ふるまいは雅で成人のようであった。成長して菅野氏と結婚する。七人の男子を産む。清照早世、清篤、長親、清高、清徳、二人の子はまだ幼く、四女あり。長女は天逝し、次は小野氏、次は三浦氏、次は家におり翌月亡くなる。
子供たちは遺言を奉じ、磐井郡東山黄海皇徳寺に葬った。享年五十四才。清房は議論激しく妥協しなかった。海内(国内外)とも戦没者が多く、激しく憤る。身をもって国家に公益をもたらした。前後在職二十年、記するべきは一つでなく今特に表敬したいのは殉難大節そのものだ。願いは幾百世にわたり風聞を聞いて立志あらんことを。
従二位大蔵卿伊達宗城隷額 従五位守仙台藩伊達宗敦建
私は黄海の地の傍をとうとうとながれる北上川に沿っての帰途、監物の無念に思いを致しながら、仙台へ急ぎました。
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