2022年3月(No.325)
スギ花粉症を追ってシリーズ②
種子島・屋久島ツアーレポ2
院長 三好 彰
はじめに
新年の明けた2022年1月19日(水)から21日(金)にかけて、鹿児島県の種子島・屋久島を巡るツアーに参加してきました。
屋久島には、私が長年研究しているスギ花粉症のルーツを辿るためのキーである屋久杉が植生しています。詳しくは本紙313号「チベットにおけるスギ・ヒノキ植生と感作」をご覧下さい。
前回は屋久島のヤクスギランドにある様々な杉についてご紹介しました。
今回は、その屋久島にある屋久杉自然館と杉について少し触れたいと思います。
屋久杉自然館
屋久島東部の山中へと延びる道の麓にある屋久杉自然館には、屋久島での林業の歴史や自然、文化に関する展示がされています。
展示室に入って目に入ったのは、まるで伐採された倒木を思わせる屋久島最大の杉・縄文杉の枝です(図1)。
図1
2005年の大雪に見舞われた際に折れた枝を回収したそれは「いのちの枝」と呼ばれ、その大きさは長さ5メートル、重さ1.2トンにも及びます。現場から運びだす際にはヘリコプターが使われたそうですが、まるで枝とは思えない迫力に満ちています。
縄文杉
「いのちの枝」の母体である縄文杉は、現在確認されている屋久杉の中でも最大級の大きさを誇ります。樹高25.3メートル、周囲16.4メートルもの大巨木で13人もの人が手を繋いでやっと一周するほどの太さです。
成長が早く平均樹齢が500年と言われる杉にあって、この屋久島の杉はそれに倍する年月を生き抜く古木が散見されます。その秘密は屋久島の土地にありました。前号でも触れましたが、この屋久島はマグマが冷えて固まった花崗岩の塊が、長い年月を変えて地表に隆起(貫入と言います)して島を形成しています(図2)。
図2
そのため土地は固い花崗岩で覆われているため、根を張るための土壌が殆どありません。本来は地中に広がる根っこも硬い花崗岩に沿うように伸びていくため、その成長速度はとてもゆっくりです。そのため年輪の幅も狭く材質が緻密になり、樹脂分が多く分泌されることで防腐剤の役目を果たし、屋久島の杉は通常より長く生きられるようになりました。
こうした特徴から、丈夫で長持ちする建材として注目された屋久島の杉の多くは江戸時代末まで5~7割近くが伐採され、その多くは建材以外にも広く使われました。
桶樽と日本酒
杉の木が大きな役割を果たしたのは、遡ること紀元前の縄文時代。
福井県の鳥浜貝塚から杉の丸木舟が見つかるなど、水に強く加工しやすい杉の木が使われていたことが分かっています。
その後、弥生時代に入ると大陸から普及した稲作が行なわれるようになり、鋤(すき)や鍬(くわ)などの農具や灌漑用水を作るための板材に広く用いられるようになりました。
そして7世紀頃の飛鳥・弥生時代を迎えると集権的な都市が構築され、大規模な木造建築物が登場するようになります。ここでも杉やヒノキなどの木材が大量に使用されるようになり、杉の産地の乱伐が行なわれるようなりました。
井上栄氏の著書「文明とアレルギー病」(図3)には、杉は江戸時代の酒造りと深く関わっており、樹脂が防腐効果をもたらす杉の木は、日本酒を貯蔵する大樽に用いられていたそうです。こうした樽には直径1メートルの杉の木が必要とされ、日本各地の杉の良木を求めた調査が行われました。
図3
伐採し尽くされた? 屋久島の杉
屋久島の杉が使われたのは、1560年頃に大隅正八幡宮(いまの鹿児島神宮)の改築に使われた記録が残されています。そして鹿児島一帯を治めていた島津家による木材資源の調査が行なわれて以降、防腐効果の高い屋久島の杉は屋根材などに使われるため多くが伐採され、関西方面に輸送されました(図4、5)。
図4
図5
いま屋久島にある若い杉の殆どは、伐採された切り株から新たに芽吹いた杉(切り株更新と言います)が成長したものです。
樹齢1000年を超える縄文杉や紀元杉といった古木は、その当時にあっても相当に大きな木に成長しており、特徴的な形をしていたことから加工が難しいために伐採を逃れたという経緯があります。
その跡は、直接現地に行ってみると良く分かります。
ヤクスギランドの遊歩道を進んで行くと、あちらこちらに苔に覆われた切り株や、切り倒された杉の残材が多く見受けられます(図6)。
それら残木を苗床として包み込むように成長した数々の杉が、天を目指すように伸びる様に思わずため息が漏れてしまいます。
図6
杉のお陰で清潔だった江戸
杉にまつわるお話で、もう一つ興味深いものがあります。
最近では使用されなくなりましたが、以前は人の排せつ物を発酵させて畑の肥料(下肥)にしていました。その様子は昔のアニメやマンガなどで、畑のすぐ横に天蓋付きの木枠で覆われた肥溜めに登場人物がハマるなどの描写でお馴染みでしたが、近代では安価な化学肥料の普及に伴いそうした風景が見られなくなりました。
正確な数字は残されていませんが、1700年代の江戸には約60万~100万人もの人々が住んでいたと考えられています。これは1801年のヨーロッパの都市であるロンドンが86万人、パリの54万人と比べても遜色ないか、またはそれらを超える大都市だと言われています。
西欧とは違い木造平屋建ての多かった江戸では、前述した糞尿を肥料として再利用する農業が盛んであったことから、わざわざ公衆便所の糞尿を買い取って集める仕事が存在していました。そのため江戸町内は糞尿で溢れかえることはなく、大都市に見られるペストや赤痢の流行が抑えられていたと考えられています。
ちなみに、その1世紀前のヨーロッパの大都市では上下水道なども整備されておらず、日本とは違って石造りの高層建築が並んだ都市部では、家に溜まった糞尿を窓から外に向けて捨てられていたそうです。その際、下を歩く人に向けて「ガーディ・ロー」と注意を促してから、捨てるのがマナー? だったとか。
当然、下水処理施設などは整備されていないため飲用にも用いられる河川の水質汚染は深刻化しました。当時の状況が風刺画として残されています(図7)。
図7 井上栄氏「文明とアレルギー病」より
当時の江戸には、日本全国から良質の材木が集められていましたし、単層構造の街並みも相まって糞尿を窓から放り棄てることがなかったため、都市全体を襲うような感染症被害にあいにくかったのかも知れません。
逆説的に言えば、杉の木が豊富だったからこそ人の命が失われずに済んだ、と言えるのではないでしょうか。
つづく