2022年4月(No.325)
スギ花粉症を追ってシリーズ③
種子島・屋久島ツアー3
院長 三好 彰
はじめに
新年の明けた2022年1月19日(水)から21日(金)にかけて、鹿児島県の種子島・屋久島を巡るツアーに参加してきました(図1)。
屋久島には、私が長年研究しているスギ花粉症のルーツを辿るためのキーである屋久杉が植生しています。詳しくは本紙313号「チベットにおけるスギ・ヒノキ植生と感作」をご覧下さい。
さて、前回は屋久島の杉にまつわるお話をしました。
今回は、旅行初日に訪れた種子島についてご紹介します。
図1 行程表
種子島って?
種子島は南北に細長い形をしており、日本で10番目の面積(444.30km2)を誇る島です。すぐ西側にある屋久島が標高2,000mに迫る凸型なのに対し、種子島の最高標高は282mほどでほぼ平らに見えるのが特徴です(図2、3)。
また、非常に古くから人が居住しており、旧石器時代には生活した跡が残されている数少ない離島の一つだそうです。
戦国期には渡来したポルトガル船から火縄銃が伝わった地でもあり、以来、火縄銃は種子島銃と呼称されるようになり、日本全国に一気に普及していきました。
ちなみに京都在住の三好一族が伊達政宗に召し抱えられた経緯には、監物が鉄砲の技術情報を持っていたためという謂れが残されています。
図2
図3 ほぼまっ平らな種子島
当時、最強の種子島銃
火縄銃(若しくは種子島銃)とは、弾とそれを打ち出すための装薬を銃の先端からこめる火器の名称で、欧州ではマッチロック式(火縄式)のマスケット銃とも呼ばれています。鉛などで作った球体状の弾丸を音速に近い速度(種類によっては音速以上)で打ち出す火縄銃は、甲冑や具足で身を護る兵士を遠距離から無力化する威力がありました。
加えて、今までにはない火薬の爆発による轟音は、元来臆病な生物である馬(騎兵)や兵士の恐怖心を煽る効果も持ち合わせており、戦争の常識を塗り替える可能性を秘めていました。
ただ、現在の銃器とは違い、銃身内部に回転力を生み出す螺旋(ライフリング)が刻まれておらず、諸説ありますが有効射程は200メートル程と言われていたそうです。対象への命中率を考慮すれば30~50メートルが実用的だったそうです。
この火縄銃ですが、1543年に種子島を訪れたポルトガル人からもたらされたと言われています。その摩訶不思議な形と威力を目の当たりにした種子島氏(種子島を治めていた武将)が、鍛冶師に命じて火縄銃を研究させて以来、急速に日本全国に広まっていきました(他にも、外国の貿易商人などが日本の複数地域にもたらしたとも言われています)。
正確な数は不明ですが、全盛期の日本の火縄銃保有数は約50万丁とも言われ、これは世界最大級の保有数であったと考えられています。
当時の日本には、刀鍛冶などに由来する金属の加工・精製を可能とする冶金技術が発達していたことも、火縄銃の急速な普及に一役買っていました。いまでも日本各地の町名に「鉄砲町」と残されているのは、当時の鉄砲開発の名残です。
補足ですが、この火縄銃の伝来によって日本に初めて「ねじ」がもたらされたことも、日本の工業史に残る有名なエピソードの一つです。これは、銃身を作る過程上(硬い棒に、鉄の板を巻き付けて銃身を作る)で、両端に穴が開いた構造となってしまうため、銃身の底(終端部分)を埋めるためにねじが用いられました。
海蝕洞窟「千座の岩屋」
太平洋を望む東海岸には、種子島最大の海蝕洞窟である「千座の岩屋(ちくらのいわや)」があります(図4、5)。常に打ち寄せる荒波によって浸食された洞窟群には、約1,000人が座れると言われるほどの広さがあり、その名前の由来となっています。
潮の引いた洞窟に入るとほんのりと潮の香りが鼻を突きます。その先に見えるのは紺碧の海。洞窟内を反響する潮騒が体全体を包み込み、独特な音色を奏でます(図6、7)。
図4 太平洋を臨む浜田海浜
図5 水面からのぞく奇岩
図6 干潮時にしか通ることが出来ません
図7 洞窟の先で記念撮影
つづく