2021年12月(No.322)
岩手県 陸前高田市 訪問記
秘書課 菅野 瞳
はじめに
「東日本大震災から今年で10年を迎えました。世の中では、本年は震災から10年の節目、節目とよく言われていますが、節目とは一体何なのでしょうか。被災地には、遺族の皆さまには、節目などないのかもしれません……」
これは、震災により奥様を亡くされながらも、懸命に市民のために陣頭指揮を執り続けた陸前高田市の戸羽市長が、涙ながらに追悼式辞で述べられた言葉です。
東日本大震災で義母を亡くした私は、本年度の追悼式に遺族として参列しました。
市長が仰った“節目”などないというその言葉は、ご自身が掲げた復興案に「10年だからと一息などつきたくない、区切りなどないのだ」という強い意志を感じた瞬間でした。
あれから4カ月。陸前高田市が1年で一番活気づく、まさに11年ぶりの海開きの直前に再訪しました。
陸前高田のいま
陸前高田市が有する高田松原海水浴場は、岩手県内で一番人が集まる海水浴場で「岩手の湘南」と呼ばれるのだそうです。
震災の津波により、松原に約7万本あった松は「奇跡の一本松」を残し、全てが流失しました。奇跡の一本松……これは、陸前高田市の震災遺構の一つで、2012年の5月に、残念ながら枯死が確認されたものの、2013年7月にモニュメントとして保存することが決まり、唯一耐え残った復興のシンボルとなっています(図1)。
図1
私が訪問した折にも、この震災遺構を一目見ようと、客人が一本松を取り囲んでいました。
奇跡の一本松のすぐ傍には、同じく津波の威力を後世に伝える震災遺構として「陸前高田ユースホステル」があります(図2)。
建物は半壊し、水没した状態にありますが、この建物があったからこそ”奇跡の一本松”が生き残ったと言われています。
図2
一本松の傍で目を閉じてみると、震災前の髙田松原を知る私は、潮風による塩害にも強く、防風林として植樹され、凛とそびえ立っていた7万本の松の姿が目に浮かびました。
震災遺構を後にし、震災後初めてとなる海開きが行われる砂浜へと降りて行くと、まるで湖水のような穏やかな海がそこにはありました。今思えば、私の心のどこかに、この海が大勢の方のかけがえのない命を、一瞬にして奪ったのだという雑念があったのかもしれません。
久方ぶりに目にした高田松原の海は、身構えていた自分の想いとは裏腹に、あまりにも静寂で優しく、この海が凶器になったとは到底思えない、そんな姿でした。高田の海は、松原に来てくれた方々に、海を嫌いにならないでねと言っているような、そんな気さえしました。
東日本大震災津波伝承館
高田松原の心地良い波の音に見送られながら、いよいよ初訪問となる「東日本大震災津波伝承館」へ入館です。
2019年9月22日、東日本大震災津波伝承館、愛称「いわてTSUNAMIメモリアル」がオープンしました。駐車場側から見て左手が伝承館、右手側には陸前高田の産直品を取り扱う道の駅があります(図3)。
図3
この伝承館は、東日本大震災津波の悲劇を繰り返さないため、震災津波の事実と教訓を後世に伝承するとともに、復興の姿を国内外の人々に発信することを目的として建設されました。エントランスをくぐり、館内の案内図を頂きます。伝承館は大きく4つのゾーンで編成されています。まずはゾーン1です。このゾーンは、地震や津波が何故起きるのかという解説から始まり、歴史的・科学的視点から津波災害を紐解いていき、古来育まれてきた知恵や技術、文化を見つめ直し、自然との共存を考えるエリアになっています。
次いでゾーン2エリアです。ここは「事実を知る」がテーマになっています。東日本大震災の津波で破壊された橋桁や消防車の展示、また身をもって体験することとなった被災者の声や、被災現場の写真等が展示されています。
第1・2のゾーンの丁度反対側に目を向けると、「教訓を学ぶ」がテーマになっているゾーン3エリアがあります。
発災からの被災地の状況、その時々の問題点や課題などを、時間軸で示したパネルや写真を展示し、被災時の状況や避難所での生活などを振り返り、命を守るためにできることを伝えています。東北地方整備局の災害対策室の再現がされており、東北自動車道から沿岸部の被災地まで、緊急輸送道路を切り開いた「くしの歯作戦」の様子から、震災当時の緊迫した状況が分かるようになっています。
最後に「復興を共に進める」をテーマに掲げたゾーン4エリアです。
ここは、国内外から頂いた多くの支援に対する感謝を表すとともに、大震災津波を乗り越えて前へ前へと進んでいく被災地の姿を伝えています。
また伝承館には、ガイダンスシアターが常設されており、伝承館自体の最大のテーマである「命を守り、海と大地と共に生きる」をコンセプトにした映像が12分間に集約されており、その映像の中で、“ここより下に家を建てるな”と記された津波石碑の教えを守り被災を逃れた、宮古市の集落があることを紹介しています。
髙田松原もその一例ですが、古来、三陸沿岸地域には、災害から身を守る知恵や教訓が伝えられてきました。そんな教訓の一つ……皆さんは、こんな言葉をご存知でしょうか?
「津波起きたら命てんでんこ」
これは、津波が起きた際、家族が一緒にいなくとも気にせず、てんでばらばらに高所に逃げ、まずは自分の命を守りなさいという教えです。この教えを守り、命が助かった方もいらっしゃれば、やはり家族や同僚が気になり、気掛りの場所へ戻ったが故に命を落としてしまった方もおられます。現世に未練を残し亡くなられた方々の声を、現世に生きる人々に届けようと、そんな声を集めた一冊の本があります。
『魂でもいいから、そばにいて』(図4)
図4
この本は、奥野修司氏が書かれた本です。
著者は以前、『花粉症は環境問題である』という著書を出版されており、その当時、当院長が発表した論文に興味を持たれ、当院に取材に来られたことがある方です。
奥野氏は著書の中で、あなたが生きたあかしは決して忘れない。そして、一人でも多くの人の記憶に残るように刻み続けたかった、とこの本を執筆された経緯を綴っています。
自分の大事な人が、不意に目の前からいなくなってしまった時、きっと誰しもが願うと思います。魂だけでもいいから、そばにいて欲しいと。
私が高田へ出向いた際にも、著書にあるような多くの体験談を耳にしました。残念ながら私には実体験がありませんが、著書にあるような体験をされた方の中には、その体験により心が救われた方もいらっしゃったのではないかと思います。東日本大震災を題材にした著書は、数多く出版されていますが、奥野氏の著書は、他著書とは視点が違う構成になっており、震災を語る上でお勧めの一冊です。
また、陸前高田市を取り上げた著書ではありませんが、東日本大震災を題材にした著書で、私には途中涙が止まらなくなってしまった一冊があります。その著書とは……三浦英之氏が書かれた『南三陸日記』です(図5)。
この本は、震災後の宮城県南三陸町で生活する被災者を描いた著書になっています。この著書の中に、「どれだけ時間がかかってもいいから、いつか、いつの日かこの震災津波が起きて良かったと思えるようになりたい」と、ある女生徒が作文に書いたという一文があります。この作文を手にした教頭先生は、震災津波というこの不条理を乗り越えていく力を、恐らくこの子たちはもう持っているのですよと仰ったのだそうです。この女生徒の言葉が、私の胸に刺さったのは、その同じ言葉を不意に義兄の口から聞いたからなのです。
「ここまで大変だったけれど、震災が起きて良かったのかもしれない」と。
あの日、大切な母を自宅に置いて出勤した義兄から発されたその言葉を、私は理解することが出来ませんでした。
――何故そんなことが言えるのだろう?
正直、今でも理解は出来ていませんが、ただ教頭先生が仰ったように東日本大震災を経験された方々は、そんじょそこらのことではへこたれない、立ち向かい乗り越えていく強さを身に着けられたことは間違いないと思います。
先日、陸前高田市の戸羽市長による定例会見を拝見しました。
震災から10年が経ち、当初は嵩上げ問題についてが主流だった復興計画案も、今は土地区画整理事業による空き地問題へと転変したそうです。嵩上げをし土地を整備しても、地主が存命でなければその土地は全て空き地になってしまうという悪循環がうまれているのだそうです。
第三者として高田を見ている方々は、人が戻ってきていない空き地だらけの陸前高田市を見て、復興が進んでいるのか? と疑問を呈されるでしょうが、市長は力説されていました。
「私の掲げる最大の復興目標は、今後予想されている東日本大震災を上回るような震災が起きた時に、市民が大粒の涙を流さなくてすむような、津波で命を落とすことがないような、そんな安全な街を形成することだ」と。
戸羽市長が掲げる最大の復興目標達成には、問題がまだまだ山積みだと思います。
義兄が発した「震災が起きて良かったのかもしれない」と言える市民は、ほんの一握りでしょう。
どんなに時間がかかっても、震災時は大変だったけれど、よくここまで頑張ってきたよねっと思い出話に花を咲かせ、互いを笑顔で讃え、耳にすると背中がこそばゆくなるような、あの三陸訛りが飛び交う陸前高田市に戻るその日まで、半身は陸前高田市民? として見守り、応援し続けたいと思います。