2021年12月(No.322)
学会で質問を行ないました
院長 三好 彰
先般、東京で開催された第66回日本聴覚医学会(10/22(金))において、私は「コロナ対策マスク装用時の難聴児・者の困惑」(No.320)と題した演題発表を行ないました。
その際、他の演者も同様に、難聴者とマスク装用に関する演題発表がなされたので、私は各演者にある質問を投げかけました。
質問の内容は「ご指摘された内容につきまして、難聴者対策としてどのような方法をお考えでいらっしゃいますでしょうか?」と、いうものです。
そして、九州大学耳鼻科の野田哲平先生より、以下のようなご返事を頂きましたのでご紹介させて頂きます。
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三好先生、
九州大学の野田です。本日はご質問頂きありがとうございました。
先生の共同演者の中川先生とは私も仲良くさせて頂いています。また、デフサポの牧野さんと一緒に研究をしております。
なかなかコロナ禍での情報保障は難しいですが、透明マスクについて一点の懸念があります。
不織布マスクが飛沫感染予防には最も良いですが、透明マスクについては感染予防効果について検証されたデータが十分ではありません。
我々の主張が、透明マスクをしてくれている健聴者の感染リスクを上げてしまうことに繋がらないか、一抹の不安を覚えております。今後検証が進むと良いですね。
今後ともよろしくお願い致します。
野田 哲平
九州大学 耳鼻咽喉科・頭頸部外科
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上記メールに対して、私は以下のようにご返事しました。
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野田 哲平 先生
メール有難うございました。
九州大学耳鼻科には、私が1980年に広戸教授の手術を見学に行って以来のお付き合いです。
その後、中国からの留学生を預かって学位を取得させて貰ったり(彼はいま、上海交通大学の主任教授です)「耳鼻臨床」の補冊を出版して貰ったりしていました。
これを機に、お付き合い頂けますようお願い申し上げます。
添付写真は、小宮山荘太郎教授の最終講義の際のものです。
小宮山教授の左となりが私です。
三好 彰
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以下は、小宮山教授とのなれそめを書いたエッセイです(東北大学耳鼻咽喉科 同窓会誌より)
九大小宮山教授の思い出
院長 三好 彰
ぐつぐつ煮立っている目の前の鍋に、ぶ厚い牛肉が滑るように潜ります。やがて肉の表面がほんのり恥じらいの色を帯びる頃、馨り高いしゃぶしゃぶの肉がわたしの皿へ盛られます。目で味わった後わたしは、その肉をかすかな薬味の薫りとともに頬張ります。瞬間、頬の内側の粘膜が満足感にうち震え、舌触り満点の牛肉が蕩けます。肉に歯を立てた瞬間、内側に秘められていたエッセンスがほとばしり出て口内に拡がり、すべての感覚を痺れさせます。
口中ですばらしい魅力を存分に発揮した牛肉は、飲み込んだ瞬間に舌後面の味蕾に染み透り、後鼻孔をぬけた香ばしさが鼻腔に満ちる頃、余韻を漂わせて腑に落ちます。
その瞬間、「三好さん、岐阜へ来たら“潜龍”で奢るよ」と、時田喬岐阜大学耳鼻科元教授の声が、耳の中に蘇りました。
わたしは、2009年2月22日に開催された「岐阜県耳鼻咽喉科医会 第51回研修会」へ、特別講演のため招待されました(写真1)。
写真1
そしてその前夜わたしたちは幻の“潜龍”で、夢にまで見たしゃぶしゃぶを味わっていたのです。
スギ花粉症シーズン直前に、しかも土日曜日通常診療を唄い文句にしているわたしたちが、いかなる理由で岐阜まで講演に赴いたのか、その答が時田元教授の一言にあります。
この言葉は、1981年に仙台市で開催された、日本耳鼻咽喉科学会 第2回冬季講習会終了後の慰労会で、裏方を務め終えたわたしへの時田教授の、ねぎらいの一言だったのです。
しかし機を逸したまま、約30年後に“潜龍”訪問の天の時が巡って来ました。
花粉症が襲来しようが土日曜日だろうが、わたしが岐阜行きの逸る心を抑えきれなかった、そんな状況を本誌読者の皆様にご理解頂くことは可能でしょうか?
さて潜龍のしゃぶしゃぶはともかく、今日のテーマはグルメ世界の旅ではありません。わたしは牛肉に想いを残しながらも、箸ならぬ筆先を講習会の記憶へと引きずり戻します。
そもそも冬季講習会は、日本耳鼻咽喉科学会で耳鼻咽喉科専門医を養成するための一貫として、企画されました。それは当時日耳鼻専門医が、移行制度による大部分の措置的専門医によってなりたっていたためです。
日耳鼻学会では密かに、異論の余地のない正式の資格による精鋭の耳鼻科医を育むべく、さまざまの企画を立てました。それらは、成果が四半世紀を経てから判明するような、遠大な計画でした。そうした一例が、国立リハビリテーションセンターでの一週間缶詰講習による、「補聴器等適合判定医師研修会」でした。1983年に行なわれた第1回の研修会に参加したわたしは、時の曽田豊二日耳鼻理事長を始めとする錚々たるメンバーが、1週間居眠りもせずすべての講義を受け終えたことに、感銘を覚えました。そのときの、「この資格は後から大変役に立つものになる」との理事長の独り言を理解できたのは、17年後の診療報酬改定時のことでした。
1984年には、現在のめまい平衡医学会でも、第1回の医師講習会が開催されています。今年の第26回同講習会では、その参加証明がめまい専門医資格取得に役立つ、との説明がなされました。
これらの事情を併せ、わたしの話の意味を実感される読者も、おられることでしょう。
ともあれ、日耳鼻主催の講習会もこの頃から専門医育成の色合が濃くなり、講演主体の夏期講習会とは別の、実技習得を目的とした冬季講習会が企画されたのです。
第1回の本講習会は、1980年1月25日・26日に福岡市はかた会館で九州大学耳鼻科の担当により、開催されました。その折の参加者名簿を今手探ると、後に東大教授となった加我君孝先生始め、5名の未来の耳鼻科教授の名前が見られます。翌年の第2回日耳鼻冬季講習会は、東北大学耳鼻科の担当で実施されることが、日耳鼻で決まりました。
河本和友教授から、担当を命じられたわたしは九州大学を訪問し、第1回講習会の実務者であった小宮山荘太郎九大講師から引き継ぎをうけています(写真2)。
仙台での冬季講習会は、1981年2月21・22日に決まりました。そして講師や役員として、斎藤英雄・鈴木淳一・時田喬・中井義明・広戸幾一郎・森満保・柳原尚明の各教授などが、当日は来仙されました。
河本教授のご指導の賜でしょう。講習会は大人気で、申し込み締切後も多数の耳鼻科医の参加希望が全国から寄せられ、わたしたち事務局は断るのに苦労したものです。
この冬季講習会は後に専門医講習会へと変貌しましたが、当初の日耳鼻学会の意図が納得できるように思います。
ともあれ、そのときの本誌読者の皆様のお力添えで、日耳鼻専門医制度の基礎となる講習会は大成功裏に終了したのです。
さて、約30年度の時を隔てはしたものの、未完だった時田喬元教授のご好意と岐阜耳鼻科医会の皆様のお誘いを、今回わたしはしみじみ味わうことが出来ました。
こうして“潜龍”を堪能した瞬間、わたしは自分の中の冬季講習会の思い出がようやく一つ完結したような、そんな気がしました。
それと同時に、事務局担当として若輩のわたしをご指名下さり、将来につながる勉強をさせて下さった河本元教授のご深慮に、改めて思い至りました。
こうして、むかし話を披露する機会を与えて下さった本誌編集部の皆様に感謝申し上げ、蕩けるほど甘美な思い出を込めた筆をここに置きます。