2021年9月(No.319)
エッセイ「チベット鉄道(青蔵鉄道)における高所障害の体験」
三好 彰・青柳 健太・工藤 智香(三好耳鼻咽喉科クリニック)
新井 寧子(東京女子医科大学東医療センター)
中川 雅文(国際医療福祉大)
殷敏(南京医科大)
I.はじめに
国内では不可能だが、チベットなどに旅行した場合標高5,000m前後の高地を移動することがあり、そこではいわゆる高所障害あるいは高山病として知られる様々な人体の変化を体験する。
我々は2001年以来8回チベットを訪問しているが、2009年9月に青蔵鉄道を利用する機会があったので、その経験について報告する。
Ⅱ.対象と方法
被験者Aは、2009年の調査に同行した65歳女性で、平地と高地それぞれの覚醒時と睡眠時の動脈血酸素飽和度(SpO2)と脈拍の測定をKONICA MINOLTA Pulsox-300iを用いて測定した。
図1、2は、青蔵鉄道内のコンパートメント内での測定中の様子である。
又、調査地は次の①~④であり、図3には青蔵鉄道の走行路を示した。
青海省からチベット(西蔵)自治区に至る青蔵鉄道のルートである。
我々は、鉄道に乗車した西寧市からラサ市まで1,956kmを25時間で移動した。ルート中、ゴルムド市(図3-②)からはラサ市(図3-⑤)まで標高5,000mを超える高地が広がっており、600hPa前後の気圧の中を15時間以上かけて横断した。
Ⅲ-1.結果1(図4)
このグラフは、平地と高地とで比較した被験者Aの睡眠時のデータである。
平地は中国の西安市、昔の長安と呼ばれた街で、標高405m、気圧973hPaとなっている(図4-表1)。
対して高地、即ちチベットのラサ市は富士山の頂上に迫る標高3,650m、気圧657hPaとなっており、SpO2は35.2%まで低下する(図4-表2)。
Ⅲ-2.結果2(図5)
青蔵鉄道乗車中に測定した被験者Aの測定データと地点を示した図で、図5-②から図5-④に掛けてSpO2(青色の線)が著明に低下している。そして図5-②の睡眠中のSpO2低下は、中枢性睡眠時無呼吸(CSA)を示唆する。
Ⅲ-3.結果3(図6)
ラサ市で我々は、高所障害対策としてCPAP装用の有無を被験者Aで比較した。
すると、CPAP非装用時(図4-表2、図6-表2)ではSpO2の最大値は79.9%、最小値は35.2%となり中枢性睡眠時無呼吸(CSA)が推察された。一方、CPAP装用時(図6-表3)には、SpO2最大値が96.3%、最小値が54.8%にまで上昇した。
だが、図4-表1のごとくSASとは無縁の被験者AがCPAPには不慣れという事情もあり、就寝中にCPAPを外してしまう場面(図6)もあった。
十分に使いこなせれば、高所障害の睡眠時無呼吸に対してCPAPは有効かと考えられるが、そもそも使うこと自体に慣れが不可欠であり、場合によっては装用のために熟練した医師もしくは技師の同行も必要になるという条件も考慮せねばならない。
Ⅳ.考察
高所障害もしくは高山病は、気圧低下と低酸素に対する人体の適応障害と言える。
文献ではこの場合、図7のような症状が惹起される、と言われている。
我々は今回、青蔵鉄道を利用したチベットへの旅行において、低酸素障害を中心として調査を行なった。
順序が逆となるが、我々は2007年9月21日にやはりチベットの標高4,500mのナムツォ湖(図3※)に宿泊した。その際47歳の男性(被験者B)が夜間、低酸素から意識レベルの低下を生じた経験を有している(図8)。この際、純酸素の投与は全く無効であり、後述する理由からむしろ中枢性睡眠時無呼吸(CSA)の増悪が推察された。
ただしこの際、血中酸素濃度の測定にパルスオキシメーターWrist SO2を用いたが、被験者Aで用いたKONICA MINOLTA Pulsox-300iの検査結果(図5・6)と比較した場合、この簡易機器ではSpO2 60%以下の低酸素状態をモニターしていないことが推測できた。
余談だが筆頭著者自身もラサ市での睡眠中に、自分の呼吸が止まっていることに気付いて、あわてて覚醒したことがある。夢の中で、中枢性睡眠時無呼吸(CSA)の呼吸停止を自覚することも現実にはある。
さて、この中枢性睡眠時無呼吸(CSA)の起きるメカニズムをお示しした(図9、10)。
人体は、酸素が不足すると過呼吸になり次いで周期性呼吸となる。すると、血中の二酸化炭素濃度が低下するため呼吸中枢が抑制され、睡眠時には中枢性睡眠時無呼吸(CSA)が起きる。気圧低下による二酸化炭素濃度の低下も、PCO2低下から呼吸中枢抑制を促進する。
つまり高地では、自分で意識しないと、呼吸ができない状態に近くなる。
それは覚醒時には容易だが、睡眠時には筆頭著者や被験者A・Bの体験のように無呼吸を生じ易い。
その場合、呼吸の管理にCPAPは有効だが、使用者の慣れと熟練した医師や技師の介助が必要となる。慣れない高地の体力の低下した状態では、被験者が自分一人で初体験のCPAPを装用することは到底困難である。
さて今回は調査対象としなかったが、高地における気圧低下のもたらす重要な症状は、人体各臓器の浮腫である。
これはちょうど潜水時の水圧で人体が圧迫される現象の逆の状況と言える。
潜水時に模して、上昇する水圧とそれに応じて縮小するであろうスポンジの写真を図11に示した。ただしこの図では、水圧に替えて気圧の上昇による実験結果を提示してある。
それに対しチベット・ラサ市では気圧の低下に伴い、図12のごとく密封された容器内の空気が潜水時とは逆に膨張する。
当然、人体内の各臓器も高地障害では膨張し、浮腫を来たしていると考えられる。
最も重要なのは、中枢神経(CNS)の浮腫とそれによる頭蓋内圧亢進(IICP)で、図13の文献では第4脳室の狭小化が認められるが、それに加え図14の※に見るように小脳脳幹部のハーニエーションが生じ、呼吸中枢など生命を保持する機能がダメージを受け、放置すれば死に至ることが想像できる。
我々の今回の実体験では、参加者全員がアセタゾラミドの内服を行なっており、加えて被験者Aはラサ市のホテルの医務室でステロイドの静注を受けている。この結果目立った浮腫の症状は自覚されることなく、生命の危機には至らなかったが、楽観視は禁物であろう。
Ⅴ.まとめ
① 高所障害もしくは高山病における低酸素下での呼吸状態に関し、チベットにおいて調査を行なった。青蔵鉄道の出発地である青海省西寧市(標高2,280m)からチベット・ラサ市(標高3,650m)まで一部区間で標高5,000mを超える地点を含む25時間の行程中、一昼夜の65歳女性被験者のSpO2は最低値38.0%、最高値96.0%、平均値76.3%となった。なおラサ市では、SpO2最低値が35.2%であった。これは中枢性睡眠時無呼吸(CSA)の発生が考えられる。
② 加えて被験者の睡眠時の呼吸状態について、平地(西安市)と高地(ラサ市)との比較を行ない、高所障害の一症状としての中枢性睡眠時無呼吸(CSA)に対する呼吸管理法としてCPAPを試用した。
この結果、以前試みた純酸素投与よりもCPAPによる持続陽圧呼吸補助が高地での呼吸管理に有効である可能性が示唆された。ただしCPAPの活用には、それなりの条件が必要となる。
③ 標高3,000~5,000mの高地での高所障害もしくは高山病の呼吸障害は、
a. PO2の低下のみならず、
b.過呼吸によるPCO2の低下により呼吸中枢が抑制される中枢性睡眠時無呼吸(CSA)の関与も大きい。
c.高地においては酸素濃度低下に加え、大気中の二酸化炭素濃度低下の影響も無視できない。
④ 高地障害における呼吸障害は、上記の如く中枢性睡眠時無呼吸(CSA)であり、伝説の「オンディーヌの呪い」(図15)に例えられる性質のものである。
⑤ 予防的治療の効果もあって幸いにも今回は体験しなかったが、高所障害において最も生命に関わるのは気圧低下による中枢神経(CNS)の浮腫で、頭蓋内圧亢進(IICP)を生じ、脳幹のハーニエーションから死に至る危険さえ生じ得ることである。
2009年、チベット鉄道乗車時の動画はこちら(3443チャンネル|ユーチューブ)