2020年5月号(No.303)
はじめに
2020年4月、院長が耳鼻咽喉科学校健診を毎年実施している北海道白老町に、民族共生象徴空間(ウポポイ)(旧・アイヌ民族博物館)が開設しました。
ここ数年、北海道の先住民族であるアイヌ民族に注目が集まっており、アイヌ文化や生活習慣、暮らしぶりなどの情報を目にする機会が増えてきました。
また、時期を同じくして、院長のお知り合いである劇団シェイクスピア・カンパニーを主宰する下館 和巳さまが、シェイクスピアの代表作である「オセロ」をアイヌ民族に置き換えた新時代の演劇「アイヌ・オセロ」を製作し、日本のみならず本場イギリスでも公開されました(院長は、仙台及びロンドン公演を観劇しました)。 前号に引き続き、劇団主宰の下館さまより頂いた「アイヌ・オセロ」が出来るまでのエピソードをご紹介いたします。
シェイクスピアとアイヌ、そして三好先生
下館 和巳(しもだて かずみ) (シェイクスピア・カンパニー主宰)
「オセロ」への道
私のシェイクスピアの四大悲劇の一つ『オセロ』へのかかわりは長く、その『オセロ』の主人公をアイヌにした理由をたどると更に長くなります。
東京の私立大学の大学院で英文学を学んでいた私が、研究テーマとして選んだのは『オセロ』でした。40年前のことです。なぜ『オセロ』だったかと言いますと、まず『オセロ』の舞台をたくさん見ていたからです。
もう一つはその頃の私は「心中」という問題に関心があって、シェイクスピアの作品の中では、『ロミオとジュリエット』『アントニーとクレオパトラ』と並ぶ三大心中劇だったからです
幼少期の想い出から
私の実家は塩釜の十字屋という海産物屋ですが、父は自らを「海産物屋のおやじ。ついでに言うと海産物製造販売」と含羞のある笑顔で呼んでいたものです。
「卸業」だけではなくて「創ってもいる」んですよ、ということに誇りを持っていてのことだと思うのですが、取引先は三陸・北海道沿岸の漁師さんたちでした。ですから、自然に家にはヒグマやアイヌの男女が並んで立つ彫り物がたくさんありました。
仙台の藤崎や丸光デパートで北海道物産展が開かれた折々には、アイヌの人たちを家に招いていましたので、当時小学生だった私は、北海道とアイヌには特別な関心を持っていました。
執筆のきっかけ
私がアイヌを主人公にした『旺征露(おせろ)』を書きだしたのは、2009年の春でした。
ある時、母がしみじみと「あんだは、アイヌの人の膝の上さ乗っかって、ちゃっこい木彫りの刀だのつぐってもらってよろごんでだっけ」と語るのを聞いて、閉じ込められた記憶が湧き上がってきたのを覚えています。
まず、声です。アイヌのおじさんの低くて、やわらかい声。そして濃い髭と眉、眉の下の湖のような瞳。笑顔を見れるのは、父とお酒を酌み交わしている時だけでだったような気がします。物静かでやさしい……。なにか深い憂愁を帯びていて、私には神秘的に思われました。
昨年、東京の国際基督教大学との共催で『旺征露』を上演した際に、40年ぶりに再会した演劇部の同級生から、「下館君、自己紹介の時、先祖はアイヌだって言ってたけど、ほんとだったんだね」と言われて、遠い昔のことながら当惑しました。
そして、おそらく、アイヌのエキゾチックな風貌に対する一種の憧れのようなものを持っていたからではないだろうか、そして外国の匂いのプンプンする帰国子女の多い都会の大学の中で、埋没しそうになる自分に不安があって、敢えて自分の存在を異色のものにして目立たせようとしてそう言ったのではないだろうか、と思いました。
ロンドンにいたる壁
その『旺征露』を持ってロンドンに行きたいとは思っていましたが、思うことと実行の間にはかなりの隔たりがあります。
最初の問題は、劇場。ロンドンは舞台芸術のメッカです。その歴史と数、そして観客の層の分厚さ、更にストレートプレイ、ミュージカル、バレー、オペラ、オペレッタとその種類も規模も極めて多彩です。そこで上演するためには、まず劇場主の目に留まらなければならない。目に留まるためには? 傑出していなければならない。プロフェッショナルは、間違いなく劇場と経済の問題を同時に考えるはずです。赤字は問題外だからです。
私たちは、気概ではプロフェッショナルです。しかし、舞台収入で生活するしないという意味ではアマチュアですから、劇場の問題を経済に優先させることができます。
少し乱暴な言い方ですが、そしてそのくらいの乱暴さがないと、ロンドンでお芝居を見るではなく、するとは言えないのです。
始動する想い
私には、ジャティンダ・ヴァーマというインド系のイギリス人演出家の友人がいます。初めて出会ったのは1989年ですから、30年来の付き合いです。私が演出家として活動を始めるようになってからは、とりわけ親交が深くなりました。それは彼が、シェイクスピアの演出家だったからです。
いつの間にか、新作にとりかかる前に、私は必ずロンドンに飛んで彼と議論をしているようになりました。10年前の『オセロ』の時も例外ではありませんでした。しかし、あの頃、ロンドン公演の発想は皆無でした。原作のイタリア人とムーア人の物語を、私は確かに日本の幕末の仙台藩士とアイヌに置き換えてはいましたが、それはどこまでも私の空想の世界でした。
東日本大震災とシェイクスピア
2009年に書かれて上演された『旺征露』(第一次と呼びましょう)は、2011年3月、札幌公演を直前に東日本大震災によってお蔵入りとなって、私たちは道を変えて、5年間、シェイクスピアのお芝居をもって三陸の小さな湊をめぐる旅をしました。
その旅を終えようとしていた頃、2016年6月、私たちは「国際日英・英日翻訳者会議」の世界大会の基調講演者として指名を受けました。開催地は日本の東北の仙台。会場は国際センター。参加者は世界20ヶ国から300人。望まれたのは四大悲劇の公演でしたが、時間が限られていましたので、四大悲劇のクライマックスだけをお見せするお聞かせすることになりました。
私たちのシェイクスピアの特徴は、英国のシェイクスピアが日本の東北に生まれ変わって、更に東北弁を喋っていることにあるのですが、聴衆の皆さんは日本語の達人ばかりでしたから、東北弁の音は理解を越えて伝わったように思われ、大変な反響でした。
公演後、私に近づいて来てくださって、「下館さん、2020年の東京オリンピックの開会式でアイヌ民族が踊ります。今、アイヌに追い風が吹いています。『旺征露』を是非復活させてください!」と囁いたのは、文化庁の国語審議官の鈴木仁也さんでした。この時まさに『旺征露』は、アイヌ民族とのコラボレーションという想像していなかった形で蘇り、ロンドンへ行くという道を歩み始めたのです。
まず初めに……
そううかがった時、私は、すぐに「やりましょう!」と言ったわけではなくて、その夏から留学することになっていたロンドンで「もう一度アイヌのことについて研究してみます」とお話ししました。脚本完成から既に7年以上が過ぎていましたから、今のアイヌを知らなければと思ったのです。
鈴木さんの囁きは、大学からいただいた研修休暇のプランを大きく変えることになります。ロンドン1年滞在予定が、ロンドン―札幌―仙台の三つの都を行き来する三都物語構想になったからです。
電話やネットを通してではなく、じかに会う、じかに話す、ことをモットーとして動き始めました。鈴木さんの北海道アイヌ人脈は驚くべきもので、アイヌ世界には全く無知だった私がどれだけ、助けられたかわかりません。
恥ずかしい話ですが、私はロンドン―仙台、仙台―札幌往復、札幌―阿寒湖、弟子屈、白老を繰り返しているうちに、重い痔の病にかかって手術をし、その体で再三寒い蝦夷地を歩いたこともあって悪化。腰の曲がったおじいちゃんのようにして人に会っていました。しかし、皆さんそんな体でわざわざ遠くからと思ってくださって、方々で、アイヌ民族の方々に大切にしていただきましたから、あの時の痔も悪くなかったのかもしれないと思っています。
アイヌとインドと東北
人と人の間からしか人は生まれないように、何かも人一人から生まれることはなくて、この度の『アイヌ旺征露』などはその最たるもので、人との出会いからじわじわポコリンと生まれました。
その出会い方は、ビリヤードの玉の運動のようだと、ビリヤードをしたことがないのにビリヤードの玉の動きだけを見ていて思うのです。絶妙のスピードと角度と力で動いていく玉。奇跡のような動きですから。
私は、なんの当てもなく北海道に旅をする。たまたま立ち寄った弟子屈のチセで日川清さんにお会いして、オセロをアイヌにする構想を得る。
その後、日川さんとは連絡がつかなくなり、7年の時が流れる。
偶然の再会
文化庁の鈴木仁也さんの薦めで再び北海道へ。紹介されてアイヌ協会の副理事長さんの阿部一司さんに会う、そこで私が東京の渋谷でたまたまお会いした映画監督の佐藤隆之さんの話をしたために、阿部さんは「あっ!」と声をあげて演出家の秋辺デボさんを私に紹介してくれる(図2)。
その場で電話をするが、阿寒湖に住んでいる秋辺さんはたまたま札幌にいて、翌日早速会うことになる。
数ヶ月後に阿寒湖へ行く。アイヌの部落を案内されながら歩いていると、ばったり懐かしい人に会う。何と日川清さん! 秋辺さんの家のはす迎えが日川さんの家だった。日川さんによれば、7年前に弟子屈を引き上げてここに来たと。嘘のようなほんとうの話。
秋辺さんと会って、最初の印象は、おっかない熊みたいな人。しかし、なぜかシェイクスピアに興味がありそうでした。最初に会った店から二次会に誘われる。秋辺さんは、少し酔っぱらうとシャツの袖を捲り上げて「見てよ、この毛、高校生からこうなんだ、髭もはやしてたんだけど、先生から剃れって言われて、頭に来たね」。私は、初対面と言うこともあって酔っぱらう余裕はなかったのですが、秋辺さんのなんとも人なつっこい雰囲気と語る言葉の鋭さにグイグイ惹かれて行ったのを覚えています。そして、「オセロがアイヌなんだ。悪党のイヤゴー(図3)をアイヌにしろよ。差別されてるアイヌが英雄っていうのもどうもおもしろくねえな。媚びてるみたいでさ。アイヌにも悪党がいるんだよ。俺みたいなさ」と言って、にっこり微笑む。
人の出会いで生まれたイヤゴー
その札幌の夜から、2週間も経たないうちに、私はロンドンで、ジャティンダとビールを飲んでいました。話に聞いてはいたのですが、彼はウォータールー駅の、そうロンドンのど真ん中に劇場を建てていてそれを私に見せてくれたのです。
客席は100席足らずの美しい美しい劇場! 私は、「是非ここで『アイヌ旺征露』をやらせて」とその時思いもしなかったのは、まだ、私たちの新しい「オセロ」が生まれていなかったからだと思います。いや、心のどこかで思っていたかもしれませんが、言葉にはならなかったのかもしれません。
それより、秋辺さんというアイヌがイヤゴーをアイヌにしろって言うんだよと言うことを伝えると、ジャティンダは「それは面白い! この間、新聞で、イギリス人の男の子がインド人の男の子をいじめているという話が載っていて、そんなことはさっぱり珍しいことじゃないんだけど、そのイギリス人のお母さんが実はインド人だったんだよ。彼は、自分のインドの血をいじめたんだよ」と目をキラキラさせて言うのです。そして、「イヤゴーをハーフにしたらいい」と。
一気に加速する
それから1ヶ月後、私は阿寒湖の秋辺さんの家のそばの素敵なホテルのバーで話すと、子供のように喜んで「そりゃ面白い。俺、脚本に入るよ」と。私も調子に乗って、「じゃ演出も一緒にやってよ」と。
話は、いきなり平らな所からトントントンと一緒に「オセロ」階段を上るようにすすんだのでした。
秋辺さんが脚本に加わることは、画期的なことでした。空想のオセロから血の通ったオセロへの変貌だからです。それは彼の次の言葉に集約されます。
「差別は隠すから消えない。隠さずにさらけだす」。
アイヌ当事者ではない私たちには決してできないことですが、秋辺さんが創り手の一人となれば話は別です。図らずも、アイヌとインドと東北が、シェイクスピアの掌の上で手をつないでいる光景が私には何とも嬉しくて、ジャティンダに『アイヌ旺征露』を是非見てほしいと思うようになったのです。そのことを可能にしたのが、笹川財団と大和日英基金でした。
2019年7月、札幌で、私たちのオセロ(図4)を見たジャティンダは、帰国するや否や、時差ボケもものともせずにあっという間に、私たちをロンドンに招く企画書を書いて、送ってくれたのです。
2019年8月7日、いよいよロンドンのタラアーツ劇場(図5~6)で、『アイヌ旺征露』の幕が開きます。
東北学院大学 教養学部言語文化学科 教授
シェイクスピア・カンパニー主宰
下館 和巳