2020年11月(No.309)
「みみ、はな、のどの検査処置より」
ストマイ難聴
薄幸の美少女の運命やいかに
三好 彰(三好耳鼻咽喉科クリニック)
はじめに
1940年代の中頃、戦後に肺結核の大流行した時期がありました。有効な治療法のない当時は死の病として恐れられていましたが、アメリカで結核菌に有効な抗生物質が発見され、広くそのお薬が使用されるようになりました。
ですが、美味い話にはオチがあるとまでは言いませんが、このお薬には重大な副作用があったようです。
今回は、そんなお薬にまつわるお話をご紹介します。
肺結核に罹って
昔、肺結核(肺病)が国民病と呼ばれていた時代がありました。サナトリウム(結核療養所)は肺を蝕まれ、静かに死の時を待つ人びとで満ち溢れていたものです。
図1~3の美少女もその一人です。彼女は若くして結核に侵され、肺病病みとしてさびしくサナトリウムへ送られて来たのです。
彼女の過ごすサナトリウムは、当時第二次世界大戦直後という時代背景もあって、食料事情が良くありませんでした。彼女の雪のように白い肌は、結核と食事内容の悪化のためにますます透き通るようにさえなって来ました。佳人薄命とは、彼女のことだったのでしょうか? まわりの人びとは、やがて彼女の最後を予感するようになりました。
まさにその時でした。アメリカで開発された結核の特効薬、ストレプトマイシン(ストマイ)が届けられたのは。
ストマイの積極的な使用によって、風前の燈だった彼女の命は助かりました。美貌の彼女はしかし、その薄幸の運命を逃れることができたのでしょうか。
実はその頃、彼女は妙なことに気付きました。耳が聞こえないのです。耳鳴りもします。なんのせいだろう。まさか命を救ってくれたストマイに、難聴という重大な副作用があろうなどと、考えてもみなかった彼女は悩みました。しかし聴力の悪化は、ストマイ中止後もつづきました。
とうとう彼女は、まったく耳が聞こえなくなってしまったのです。美少女は、その美貌ゆえの薄幸を、一生担って生きねばなりませんでした。
というようなストマイ難聴薄幸物語が、戦後の結核大流行時にはよく聞かれたものです。
それは一つには結核に対抗する手段が他になく、命を守るためにはストマイの使用が止むを得なかったことによります。もう一つにはストマイ難聴が進行するものであり、しかもその進行はストマイ中止後も続くという事実が、余り知られていなかったことにも因るのです。難聴の初期にストマイを中止しても、難聴は治りません。
ストマイ難聴の進行は、図4のような形となっています。初期は高音部から始まり、低音部にも難聴は及びます。そして主人公の美少女のように、まったく耳が聞こえなくなってしまいます。
幸い近年の結核発生頻度の著名な低下のゆえに、ストマイ難聴も今では影をひそめています。ストマイ以外に有効な抗結核剤の多数開発されたことも、ストマイ難聴の減少に役立っています。
けれども私たちは、命と引き換えに聴力を失うような不幸な時代のあったことを、忘れたくないと思っています。