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みみ、はな、のどに関する病名、症状などの用語集

イスラエル訪問レポ7 総務課 青柳 健太

●はじめに

 2018年4月26日(木)から5月5日(土)にかけて、院長と私は中東のイスラエルに行ってきました。
 ここでは、数千年の歴史が根付くイスラエルについて、シリーズでご紹介いたします。

〇前号のあらすじ

 第4時中東戦争で激戦区となったゴラン高原や、貴重な水源地であるバニアス自然保護区、ユダヤ教秘密主義と芸術家の集う町ツファットを視察しました。

●5月2日(水)、7日目 ティベリア → ハイファ

 イスラエルに滞在して1週間。すでに食べなれたイスラエルの朝食メニュー(図1)でお腹を満たした一行は、北部から反時計回りに南下して行きます。
 ティベリアから西に延びる77号線を車で2時間ほど走ると、地中海に突き出た半島にある港町ハイファに到着します(図2)。

(図1)チーズやハム、ヨーグルトなどの軽食 (図1)チーズやハム、ヨーグルトなどの軽食

(図2)反時計回りに周遊します (図2)反時計回りに周遊します

〇海の玄関口「ハイファ」

 テルアビブやエルサレムに次ぐ第3の都市となるハイファは、海運の要として発展してきた街です(図3)。
 目の前には、はるか西の大西洋へと繋がる地中海が広がり、街の背後には標高500メートルほどのカルメル山がそびえています。
 その山の斜面には、少数派の宗教であるバハーイー教の霊廟と四季折々の花々が楽しめる庭園が、街を見下ろしています(図4)。
 その斜面に広がる情景の美しさから、中東のサンフランシスコとも呼び表されています。
 また、このカルメル山には旧石器時代に生きたネアンデルタール人の洞窟遺跡が散見され、古代から人が居住してきた重要な土地であることが伺えます。
 この街が開発されたのは、紀元1世紀頃に進駐してきたローマ軍によって駐屯地化されたことに端を発します。
 そして、11世紀に起きた十字軍の侵攻によって街が破壊されると、その後の数百年間はひっそりとした状況が続きました。
 そんな忘れさられた街に変化が訪れたのは、ユダヤ人の入植が本格化し、人口増大と産業拡大に伴って鉄道網が敷設される20世紀に入ってからです。
 海運と陸運の起点となったハイファは、各国の通貨を扱う両替所や船舶会社が数多く進出する港町として再生しました(図5)。

(図3)カルメル山から望むハイファ市街 (図3)カルメル山から望むハイファ市街

(図4)中東のサンフランシスコとも呼ばれています (図4)中東のサンフランシスコとも呼ばれています

(図5)多くの船舶が寄港します (図5)多くの船舶が寄港します

〇バハーイー庭園

 港から内陸部に目を向けると、カルメル山の中腹にあるバハーイー庭園が視界に入ります(図6)。
 この建物は、19世紀にイランで発祥したイスラム教系の宗教であるバハーイー教の施設です。バハーイー教の前身であるバーヴ教がその教義の内容からイスラム教圏から排斥され、ハイファへと逃れた信者たちの手によってバハーイー教へと発展した経緯があります。
 2008年にはユネスコの世界遺産に登録がなされ、ハイファの象徴的な場所として認知されました。
 私たちが訪れたときは定休日のため中に入る事は出来ませんでした。ですが山上から見るハイファ市街と目の前に広がる地中海の景色は、まさに絶景と呼ぶべきものでした。

(図6)世界遺産のバハーイー庭園 (図6)世界遺産のバハーイー庭園

〇キブツ「マーガン・マイケル」

 ハイファを発った一行は、地中海を横目に見つつ2号線を南下して行きます(図7)。
 その途中、道路沿いにある大きな集落にバスは入って行きました。そこはキブツ「マーガン・マイケル」と呼ばれる場所でした(図8)。
 キブツと言われて、何となく遺跡から発見された遺物かな? と思っていましたが、正確には独立採算制をとった生活集団の事を指しています。
 より詳しく言うと、出産・就学・労働・葬式といった社会生活の全般が、その集団内で完結している組織です。
 元々は帝政ロシアの迫害から逃れてパレスチナに来たユダヤ人達が、お互いを助け合って自主自営するために集まったのがきっかけです。
 私たちが訪れたマーガン・マイケルでは、大きな水産加工工場が主要な就業場所となっており、その加工物を外部と取引するなどして生計を立てていました。
 もちろんキブツの外に出て働いている人もいますし、キブツの運営に関わる仕事などもたくさんあります。
 キブツ内には他にも保育園や食堂、集会所や娯楽施設も整備されています。
 お昼になると、住人が食堂(と言ってもかなり大きな)に集まってきて談笑しながらご飯を食べていました(図9、10)。
 集まってくる人たちは老若男女さまざまな年代の人達がおり、皆ゆったりとした雰囲気を醸し出していたのが印象に残りました。
 理由を聞くと、キブツに所属する人達にはほぼ平等に決まったお金が支給され、老後の蓄えなどを心配せずに生活する事が出来ているのだそうです。
 日々の生活に追われる日本での姿と対比して、焦燥感を感じさせない人々の表情をみると幸福とは何なのか……と、考えさせられました。

(図7)魅惑の地中海 (図7)魅惑の地中海

(図8)キブツ「マーガン・マイケル」の航空写真 (図8)キブツ「マーガン・マイケル」の航空写真

(図9)キブツ内の食堂 (図9)キブツ内の食堂

(図10)1日2食はこの食堂で食事が出来ます (図10)1日2食はこの食堂で食事が出来ます

〇キブツ内の保育園

 食堂を見学した一行が次に向かったのは保育園です。  保育園の周囲は多くの樹木に覆われており、その前庭には子ども達が遊ぶためのスペースと、実際に使われていた様々なガラクタが置かれていました(図11)。
 子ども達は、実際に使われていた本物の器具を触って分解したり組み立てたりする事で、物に対する理解を深めているのだそうです(図12)。
 また、先生たちは基本的に子ども達がやることに対して、ほぼ干渉しない姿勢を取っています。
 例えば、ある時に子ども達が作った麦畑が庭の掃除中に刈られてしまう事故が起きました。
 先生は子ども達に投げかけます。
「どうしたら同じ事故がおきないようになる? 」
 子ども達は知恵を出し合って「ここは麦畑なので刈らないで下さい」と14ヶ国語で書かれた看板を作って掲げました(図13)。
 先生たちはこの間、一切の手出しや口出しをしなかったそうです。
 日本であれば、恐らく経験豊富な大人である先生が子ども達に最適解を教えていたかも知れません。
 しかし、限られた状況において、子ども達自らが独自に答えを導き出す、その環境づくりを一貫して実践している事にカルチャーショックを受けました。
 また、そうした個人の感性が特に感じられたのは、子ども達が作った絵の「額縁」に見受けられました。そのカラフルな額縁にはパズルのピースや色鉛筆の削りカスが張り付けられており、こんな使い方があるのかと大変驚きました(図14~16)。
 既存の考え方に囚われない自由な発想。その片鱗を見た気がしました。

(図11)ガラクタ? いいえお宝です (図11)ガラクタ? いいえお宝です

(図12)園長先生いわく「子供博士の実験室」 (図12)園長先生いわく「子供博士の実験室」

(図13)子どもたち自らが作った麦畑と14ヶ国語の注意文 (図13)子どもたち自らが作った麦畑と14ヶ国語の注意文

(図14)色鉛筆の削りカスが装飾に早変わり (図14)色鉛筆の削りカスが装飾に早変わり

(図15)パズルのピースが散りばめられています (図15)パズルのピースが散りばめられています

(図16)色粘土で作られた動物園 (図16)色粘土で作られた動物園

〇ローマ時代の遺跡の残る 「カイザリア」

 日の当たり加減によってはエメラルド色にも見える地中海。海流の関係なのか、小石で形成される浜辺では波の満ち引きによって、独特の高い音色が耳を打ちます。
 その海岸にせり出すように、かつての港湾の跡が残るカイザリア遺跡があります(図17)。
 この遺跡は、およそ2千年以上も前から地中海の貿易地として存在していましたが、ヘロデ王の手によってギリシアのアテネに匹敵するべく新たな街づくりがなされました(図18)。
 街の名であるカイザリアも、初代ローマ皇帝アウグストゥスの名前の一部であるカエサルに因んで名づけられました。
 現在は国立公園として遺跡の発掘と整備が進んでおり、コンサートホールとして使われている円形闘技場(図19)や戦車競技場(図20、21)、港湾などが修復されています(図22~24)。
 また、目の前に広がる湾にはかつての港湾跡などが海中に没しており、絶好のダイビングスポットとしてダイバーの憩いの場所にもなっています。

(図17)古代の港が沈むカイザリア遺跡 (図17)古代の港が沈むカイザリア遺跡

(図18)かつてのカイザリア港 (図18)かつてのカイザリア港

(図19)発掘された円形闘技場 (図19)発掘された円形闘技場

(図20)馬で台車を引く古代戦車 (図20)馬で台車を引く古代戦車

(図21)戦車の競技場 (図21)戦車の競技場

(図22)遺跡を修復しています (図22)遺跡を修復しています

(図23)修復後の完成予想図 (図23)修復後の完成予想図

(図24)遺跡の全体図 (図24)遺跡の全体図

〇イスラエル外務省を表敬訪問

 カイザリアを発った一行は南下を続け、テルアビブの東側を擦りぬけてエルサレムへと戻ってきました。
 アテンド役のセリアさんの先導で向かったのは、エルサレム新市街の中心からやや北西にある国の中枢が集う官庁街、その一つである外国との渉外を一手に司るイスラエル外務省です。
 その建物は、公官庁などに使われている石灰岩「イスラエルストーン」で作られており、濃い乳白色の優しい色合いの外観が特徴的です。
 上空から見るとアルファベットの「H」の形に建物は配置されており、東西それぞれの棟にはオフィス、中央を繋ぐ棟には食堂やホールがありました。
 また、東棟の外壁には「命のビザ」を発給した日本の外交官・杉原千畝の名が刻まれていました。
 院長の数年越しに渡る杉原千畝を偲ぶ旅(バルト三国、ポーランド、イスラエル)の締めくくりに相応しい発見になりました(図25)。

(図25)イスラエル外務省の壁に刻まれた杉原千畝(上は拡大写真) (図25)イスラエル外務省の壁に刻まれた杉原千畝(上は拡大写真)

〇元 駐日大使エリ・コーヘンさんと面談

 エルサレムの空がオレンジ色に染まり始める頃、宿泊しているホテルにて元駐日大使エリ・コーヘンさんと面談する事が出来ました。
 コーヘンさんは2011年の東日本大震災の際、駐日大使として東京に赴任されていました。発災直後から被災地での支援活動に着手され、親善大使であるセリアさんがコーディネーターとして派遣されました。
 以来、セリアさんは宮城県の亘理町を中心に子ども達の心のケアや住民間のコミュニティ作りに腐心されました。
 コーヘンさんのお話は、ご自身が従軍された中東戦争の際の逸話や、退役後にエルサレムで起きたテロを負傷しながら鎮圧した話、日本とユダヤ人の近似性について等、貴重なお話を伺う事が出来ました(図26)。
 その後、イスラエルでは最後の夕食をホテルでとり(図27、28)、腹ごなしに夜のエルサレムを軽く散歩しました。
 ホテルのすぐ南には繁華街にあたるジャッファ・ストリートが走っており、多くの人が軒先にあるバーで談笑する姿や、ショッピングを楽しんでいる様子が見受けられました(図29)。
 その中でも、たまに見かける警察官の肩にはライフルがしっかりとかけられており、日本との危機意識の違いを実感させられます。
 どの国でもそうですが、同じ街中でも危険なエリアと安全なエリアが存在し、前者に無暗に近づかなければ地元の人と同様に過ごす事が出来ます。
 自己防衛として、そういった地域情報を集めているか、危険を回避するための術を講じたか、危機に対する感覚を研ぎ澄ませているのかが、日本と海外との差ではないかなと感じました。

(図26)院長と元駐日大使エリ・コーヘンさん (図26)院長と元駐日大使エリ・コーヘンさん

(図27)ホテルの食事はとても美味しいです (図27)ホテルの食事はとても美味しいです

(図28)なぜかバドワイザー (図28)なぜかバドワイザー

(図29)夜のジャッファ・ストリート (図29)夜のジャッファ・ストリート