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みみ、はな、のどに関する病名、症状などの用語集

イスラエル訪問レポ5 総務課 青柳 健太

●はじめに

 2018年4月26日(木)から5月5日(土)にかけて、院長と私は中東のイスラエルに行ってきました。
 ここでは、数千年の歴史が根付くイスラエルについて、シリーズでご紹介いたします。

〇前号のあらすじ

 エルサレム旧市街の周辺とイエス・キリストの降誕した町ベツレヘムへと行きました。
 エルサレムでは主に岩のドームが臨めるオリーブ山やゲッセマネの園、最後の晩餐の部屋などを回り、ベツレヘムではイエス・キリスト誕生に縁のある聖誕教会などを訪れました。

●4月29日(日)、4日目 エルサレム → 死海地方

 日差しの強さに目を細めるも、湿度の低さからか不快感はあまりないエルサレムの朝。
 今日は、南の死海地方へ向かいますが、その前にエルサレムと言えばここでしょ! という場所へ向かいます。

〇西(嘆き)の壁(図1)

 エルサレム旧市街の東側には、かつてユダヤ教の神殿が建てられた神殿の丘と呼ばれるエリアがあります。その西南部分にある第2神殿時代の外壁が通称「嘆きの壁」と呼ばれる場所です。
 なぜ、この場所が重要なのか。
 かつてこの神殿の丘に建てられていたユダヤ教の神殿は、古代イスラエル王国が滅亡した後、バビロニアでの虜囚から帰還したユダヤ人達によって建てられました。
 しかし、ローマ帝国の支配時代にその神殿は破壊されてしまい、破壊から逃れた外壁の一部が「嘆きの壁」と言われている西の壁にあたります。
 エルサレムの陥落後、年1回の訪問を許されたユダヤ人達は来訪の度に帰郷の念を強めていき、その悲願が果たされたのは約1900年後の第3次中東戦争後になります。
 西の壁の写真(図2)を見ると、高さによって石の大きさなどにバラツキがあるのが見てとれます。これは、その時代の王朝によって拡張がされたためで、地面の高さから7段目までは第2神殿時代、8段目から11段目はローマ帝国時代、その更に上の細かい石はマムルーク朝時代に増築された物と言われています。
 エルサレム全域がイスラエルの占領下に入った1948年以降、西と南側の外壁面の発掘が進んだことで、壁の基底部まで埋まっていた17段分の壁が見る事ができます(図3)。
 しかし、この外壁は基底部から最上部までの高さが30mを超えており、これは古今東西の城を囲む城壁の高さがおおよそ10~15mが一般的であるのに対して、倍の高さに相当する大城壁となっています。とても数千年前に建てられた建築物とは思えません。
 西の壁のあるエリアに入るには、一度セキュリティゲートをくぐる必要があり、持ち物のX線検査があります。
 また、服装も短パンなどのラフな格好では入場拒否をされる事も少なくないそうですが、中にはラフな格好の人も散見されましたので、その時々で判断が分かれるのかも知れません。
 特に敬虔な信者は、黒色の服とハットを被って祈祷をしていました(図4)。
 観光客は入口で配られている簡易的な帽子を被ってから入場します。
 男女で祈祷できる場所が区切られており、男性は北側、女性は南側に分かれます。
 非常時のために爆発物を投げ込む耐圧タンクが置いてあるのが印象的でした(図5)。

(図1)嘆きの壁と院長 (図1)嘆きの壁と院長

(図2)嘆きの壁 (図2)嘆きの壁

(図3)発掘された第2神殿跡 (図3)発掘された第2神殿跡

(図4)敬虔なユダヤ教信者 (図4)敬虔なユダヤ教信者

(図5)爆発物を投げ入れる耐圧ポッド (図5)爆発物を投げ入れる耐圧ポッド

〇間食 露店のパン

 旧市街の南にある糞門、かつては排せつ物を運び出すために使われた門から出ると、路上にいくつかの露店が並んでいます。
 セリアさんがその中から、ゴマのまぶしたパンと「ザーター」と呼ばれるスパイスミックスを買ってきてくれました(図6)。
 まずはパンのみを一口。ほんのりとした甘味が口の中に広がり、外はカリッと中はフワッとした食感がとても美味しく感じました。
 そこにザーターをつけて食べてみると、塩味とスパイスの刺激的な香りが加わり、また別の楽しみ方ができます。
 さすがイエスが「パンは私の肉……」と言わしめた国。数千年もの年季の入ったパン造りの技が込められています。

(図6)外はカリカリ、中はフワッと (図6)外はカリカリ、中はフワッと

〇死海地方へ(図7)

 エルサレムから高速1号線を東へと向かうと死海地方に入ります。徐々に周囲の景色が砂色の荒れ地へと変貌していきます。「ここは火星の大地です」と言われても違和感のない風景に、思わず言葉を失いました(図8)。
 死海地方は、アフリカから続く総延長7千mもの長さを誇る大地溝帯と呼ばれる巨大な谷の北端にあたります。この谷を境にして西側にアフリカプレート、東側にアラビアプレートという断層に分かれており、2つの大陸プレートの切れ目によってヨルダン渓谷が形成されています。
 グーグルマップを見てみると、大地溝帯にそってアカバ湾や紅海が作られているのが見て取れます。
 元々、死海地方の一帯は海の底であったので海抜マイナス400m程の窪地になっています(図9)。

(図7)古代の遺跡が点在する死海地方 (図7)古代の遺跡が点在する死海地方

(図8)まるで火星のような風景 (図8)まるで火星のような風景

(図9)東京タワー以上の高低差がある死海地方 (図9)東京タワー以上の高低差がある死海地方

〇オアシスの町エリコ

 古代から続くオアシスの町エリコは、紀元前1万年ほど前にはすでに人が住んでいたとされる跡が残されており、世界最古の城塞都市と言われています(図10)。
 その遺跡は、町の北西にあるテル・アッスルターンと呼ばれる場所にあります。
 エリコ周辺が見渡せる小高い丘に登るとその中央付近に発掘現場があり、1万年前の住居跡や約4千年前の城壁が土中から姿を現しています(図11)。その地層をよく見てみると何層もの茶色の縞が入っており、それは過去に町が焼けて滅ぼされた跡なのだそうです。長い歴史の中で行くたびも戦火に沈んだ町ですが、砂漠のオアシスという好立地が人を集める事になったのだと感じました。

(図10)オアシスの町エリコ (図10)オアシスの町エリコ

(図11)約4000年前の城壁跡 (図11)約4000年前の城壁跡

〇ヨルダン川での洗礼

 紀元26年頃、イエスはこの地に訪れた際、ヨルダン川のそばで説教をしている洗礼者ヨハネと出会います。そしてイエスはヨルダン川で洗礼を受けたと言われています。
 現在、カスル・エル・ヤフドと呼ばれるその場所は、ヨルダン川を挟んですぐ目の前にヨルダンの国土が広がっています(図12)。
 驚いたのはその川幅の狭さで、対岸のヨルダン側にもこちらと同様に川面まで下りられるベランダが作られていますが、相手の顔が判別できるくらいの距離しか離れていません。川を泳いでいけば10秒以内にヨルダンへと渡ることが出来てしまいます。
 川の水は茶色に濁っており、気温に比してその水温は低いため手を入れてみると心地よい冷たさを感じました。
 国境線と書かれた看板のすぐ横で、老若男女問わず多くの洗礼者が頭まで川に浸かっていました(図13)。

(図12)すぐ目の前は隣国ヨルダンです (図12)すぐ目の前は隣国ヨルダンです

(図13)ヨルダン川での洗礼 (図13)ヨルダン川での洗礼

〇死海写本が見つかったクムラン遺跡

 1947年、死海の西北部にあるクムランという土地の洞窟から巻物の入った壺が大量に発見されました。
 その総数600を超える巻物は、今まで最も古いと考えられていた写本(旧約聖書とその関連書物)よりも更に千年ほど前の時代の書物とされ、その量と質は20世紀最大の考古学的発見として話題になりました。
 死海文書とも呼ばれ、社会現象を起こした某有名アニメにも登場しています(図14)。
 この遺跡の特徴は、山から流れてくる水や雨水を効率的に貯め込む構造が施されており、水の少ない地方に住む人たちの英知が集まった施設だったようです(図15)。
 しかし、この地域に住んでいたユダヤ民族はローマ帝国の支配時代に滅ぼされてしまい、その際に隠されたこれらの文書が再び日の目を見るのは実に千年後になります。

(図14)死海文書の一部 (図14)死海文書の一部

(図15)貯水機能を持ったクムラン遺跡 (図15)貯水機能を持ったクムラン遺跡

〇マサダ遺跡

 死海のほとりにある高地が、かつてローマ帝国とユダヤ民族との間で起きたユダヤ戦争、その最後の決戦場となったマサダ要塞です(図16)。
 西暦73年に終結したユダヤ戦争ですが、その最後の戦場となったマサダでは、エリエゼル・ベン・ヤイール司令官ら967名のユダヤ人たちが籠城していました。
 対するマサダ要塞を包囲するローマ帝国軍は約1万人。10倍以上という絶望的な兵力差があるなか、ユダヤ人たちは3年近くも籠城し続けました。
 なぜ、そこまでの兵力差があるにも関わらず籠城し続ける事が出来たのか。まず1つにはマサダ要塞を難攻不落ならしめる立地にあります。
 マサダ要塞の周囲360度は切り立った絶壁となっており、往来には蛇の道と呼ばれる細い間道を使う必要がありました(図17)。当然、細い道では大軍を展開するスペースがないので、守備側にとっては守りやすくなります。
 また、要塞には無数の食糧庫や雨水をためるための貯水槽が整備されていたので、水・食料不足に陥る心配がなかった事も大きな助けとなりました(図18)。
 しかし、攻め手のローマ軍はユダヤ人の奴隷などを使った人海戦術を駆使して、要塞の西側に石を積み上げた斜面を造成して攻め上がり、2年以上におよぶ籠城劇は幕を閉じました(図19)。  こうして国を滅ぼされたユダヤ民族は、以後2千年近くに渡る離散の時代を迎える事になります。

 この地がイスラエルの管理下に置かれた現在、マサダ要塞は世界遺産として国内外から多くの観光客を受け入れる観光地となりました。
 加えて、イスラエル軍に入隊する新兵はこのマサダ要塞で入隊宣誓式を行うことが恒例となっています。二度とユダヤ人は滅ぼされないと言う決意とともに、厳しい軍務に励むのだそうです。

(図16)マサダ要塞 (図16)マサダ要塞

(図17)北側の崖に突き出た神殿跡 (図17)北側の崖に突き出た神殿跡

(図18)食料などを納めた貯蔵庫跡 (図18)食料などを納めた貯蔵庫跡

(図19)ローマ軍が攻め上るために造った斜面(要塞から下を望む) (図19)ローマ軍が攻め上るために造った斜面(要塞から下を望む)

〇夕食 ホテル「ダニエル・デッド・シー」

 灼熱のマサダ見学を終えた一行は、更に20㎞ほど南下した死海沿岸のエン・ボケックという町へ向かいます。この町は死海遊泳の中心的な場所で、湖岸には多くのリゾートホテルが林立しています。
 その中でも1、2を争う高級スパ・ホテルが「ダニエル・デッド・シー」です(図20)。屋外プールにジャグジー、スポーツジムやトルコ式サウナなどのアクティビティ設備が完備されており、道路を渡ればすぐに死海のビーチへと繰り出すことも出来ます。
 夕食はビュッフェ方式ですが、1回で制覇する事は難しい程のメニューが並んでいます(図21~26)。
 とても食べきれる量ではないのですが、目の前に料理があるとついつい手が伸びてしまいます……。今日もお腹を一杯にしてベッドに沈み込みました。 

つづく

(図20)死海を望むリゾートホテル (図20)死海を望むリゾートホテル

(図21)サラダバー (図21)サラダバー

(図22)こちらはスープ類 (図22)こちらはスープ類

(図23)サフランライスや付け合わせ (図23)サフランライスや付け合わせ

(図24)パンはどれも美味しいです (図24)パンはどれも美味しいです

(図25)焼きそばのような物もあります (図25)焼きそばのような物もあります

(図26)牛肉の煮込み料理など (図26)牛肉の煮込み料理など