県立聴覚支援学校 特別講義 2 聴覚障害に携わる方々へのメッセージ|3443通信
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県立聴覚支援学校 特別講義 2 聴覚障害に携わる方々へのメッセージ

●はじめに

 2017年6月6日(火)、院長が学校医を務める聴覚支援学校(旧ろう学校)にて、筑波技術大学 名誉教授の大沼直紀先生(図1)による特別講義が行われました。その続きをご紹介いたします。

(図1) (図1)

大沼Dr.

〇バリアフリー・コンフリクトの歴史

 このバリアフリー・コンフリクトと言う問題は、聴覚障害の世界では一番ドロドロとして生々しい喧嘩が、聴覚障害を支援する団体内でも続いてきたんです。
 もしかしたら、別の障害でも同様のコンフリクトが起きる可能性もあります。
 特に聴覚という世界は、障害の分野において先端を走って進歩してきたものですから、コンフリクトが激しいのかも知れません。
 皆さんご存知のように聴覚障害者の団体内での衝突や、日本ろう話学校と手話教育を行う明晴学園との間にも対立してきた歴史があります。
 または、古今東西に通じている口話法(発音時の口の形と、補聴器などから得た音情報を併用する教育法)と手話の対立、聴覚障害者のために創られたギャローデッド大学のギャローデッド先生とフランスの耳鼻科医で「アヴェロンの野生児」という本を書いたイタールさんとの対立など、多くの対立の歴史がありました。
 そうした中、難聴児を持つ親からは手話が良いのか人工内耳が良いのか、どうすれば人間らしい生活が送れるのかという未解決問題が突き付けられていました。

〇恩師の存在

 少し話を戻しまして、ずいぶん昔に日本の中でも先駆けて宮城県医師会がヒアリング・センターを作りました。
 これを作ったのは、私が恩師と言って憚らない耳鼻科医の三好 佑先生(院長の父)でした。
 そもそも三好先生は宮城県ろう学校の校医であり、私が周囲の冷ややかな目のなか乳幼児教室をやっていた時に随分と助けて頂いた先生です。
 ある時には、君がやっているような事をアメリカの大学ではこのようにしていると教えて頂いたり、多くの本や資料を見せて頂いたり、耳鼻科健診の後に乳幼児教室に足を運んで頂いたりしました。
 その内に三好 佑先生から、耳鼻科とろう教育の両方を学んではどうか? と刺激を与えて頂きました。そして私が30歳後半の時にろう学校を辞めて、前述したアメリカ留学に繋がりました。
 その時の私は、乳幼児教室をやる中でどこかにモデルや見本がないかなと探していた時期でした。
 すると三好 佑先生から、アメリカのワシントン大学中央ろう研究所(CID)のデモ・ホームについて伺いまして、そこで初めて私と同じような事をやっている世界があるんだと知りました(図2)。
 その大学には附属のろう学校、補聴クリニック、ノーベル賞級の方が所属するオーディオロジー研究所などがありまして、当時とても厳しい親子指導を行っているシモンズ・マーティン博士と出会いました(図3)。
 この先生から、0歳児の早期教育の重要性や方法を学びました。
 そのシモンズ博士が言うには、親に絶対に守らせた8つのルールと言うのがあります(図4)。
 本当は、親は最初にこのルールの全てを出来るようにならなければならないのですが、これにいつまでも縛られてもいけないと言う意味でも記載しています。
 そして、私はシモンズ博士の下で学んだあと、私は大学の別部門である補聴クリニックに入りました。ここでは患者さんの聴力検査や補聴器のフィッティングなどを行いました。
 その時に、ポペルカ教授という方とお会いしたのですが、この教授が何をしていたかと言うと、部屋の半分位を占める大きさのコンピューターを使って補聴器のフィッティングをする研究をしていました(図5)。
 例えばイヤーモールド(耳の形に合わせた耳栓)の穴の大きさを変えると、高い音と低い音の調整ができると言った職人の手仕事の世界だったのが、コンピューターで出来るようにするという突拍子もない事の様に当時は思いました。ですが、今ではそれが当たり前となり、補聴器はコンピューターそのものとなりました。
 私も補聴器を使っていますが、両耳それぞれの補聴器が通信して、どの方向から音が来ているのかを強調して教えてくれます。
 また、今日は朝から補聴器を付けて新幹線に乗って仙台まで来ましたが、その間の騒音などのデータを補聴器が記録・分析しまして、次の時には自動的に応用してくれるという位に頭が良いんです。
 そういう補聴器のアイデアが生まれる前に、ポペルカ先生は一生懸命にコンピューターの研究をしていたんですね。こういう先生に巡り合ったんです。
 それから、聴能訓練という方法を生み出したアーバー博士や、数多くの補聴器が出てくるなか補聴器を選別するフィッティング法をまとめたパスコ博士などに師事しました(図6、7)。
 そして、今年出たばかりの私の著書で「教育オーディオロジーハンドブック」(図8)には、その頃に学んだ事のまとめですとか、私の弟子になった先生などに執筆してもらった内容が書かれています。こういった本が出来たのも恩師の方がいたからこそですね。

(図2) (図2)

(図3) (図3)

(図4) (図4)

(図5) (図5)

(図6) (図6)

(図7) (図7)

(図8) (図8)

〇これからの人達へ

 さて、これから聴覚に関わる若い聴覚師さんたちや特別教室の方などに伝えたい事ですが、まず思い立ったら飛び出せば良い! という事です。
 いつまでもろう学校が良いとか、学校の先生が天職だと言うのではなく、何か変だなとか、ほかにやりたい事が閃いたという時には、若い時は思い立って飛び出して良いと思います。
 物理的もしくは精神的に飛び出しても良い、または今の時代はインターネットを使って情報収集や発信が出来るので、居ながらにして飛び出す事も出来ます。とにかくその現場に留まるのではなくて、世界の良い悪いも含めた動向を調べて、それを知った上で聴覚障害に関わるのが大事だと思います。
 世界と言う意味では、筑波技術大学と言うのは日本の中ではあまり知られていません。聴覚障害者のための総合スポーツ競技大会であるデフリンピックと言うのも、あまり認知はされていません。
 私は世界中の大学で講演をしていますが、この筑波技術大学という大学は世界ではとてもに有名です。
 先ほどお話ししたギャローデッド先生の作った手話教育を主としたギャローデッド大学は、今から152年前に設立しました。
 その次に理工学系のアメリカろう工科大学(NTID)が出来まして、3番目に出来たのが筑波技術大学です。

〇中国での仕事

 これ以降、主に中国が多いですがアジアを中心として聴覚障害を教育する大学がたくさん出来ました。私もアドバイスをしたり視察をしたりしまして、中国では4つの大学設立に関わりました。今ではこの4つの大学と筑波技術大学とは姉妹校提携をしています。
 面白いのが、大学の学長はそれほど偉いわけではなく、実際の判断は党の書記が行うんですね。

〇タイでの仕事

 あとは、タイの王室に聴覚障害のお子さんが生まれたので王宮の中にロイヤルろう学校を作りました。それがベースとなってバンコク市内に大学を作りました。

〇ロシアでの仕事

 ロシアでは、宇宙飛行士のガガーリン少佐が卒業したバウマン工科大学という大学がモスクワにありまして、そこでは冷戦前からロケットの開発競争をしていたんですね。
 ところが冷戦が終結すると、逆に規模縮小の波が押し寄せまして、職にあぶれた教員が出てしまったんです。それではイカンと言う事で、国が新しい大学を作ったんです。
 その内の1つが、バウマンモスクは州立工科大学という大学で、そこに聴覚障害を持つ子どもを受け入れる聴覚学院が出来ました。
 ロシアは広いので、全土からすごく優秀なろう者が集まりまして、工科大学の生徒にも引けを取らない成績を修めました。
 大学の学長と仲良くなった際、どうしてロケット開発をしていた方が学長になったのか聞いた事があります。学長は、ご自身の娘さんが小さい頃から聴覚障害を持っていたそうです。
 その当時は聴覚障害教育を行う学校もなかったので、学長自身が娘さんを教育し、娘さんも努力をして大学に入学できる学力を手に入れたそうです。そういった経緯があったので学長に選ばれたとの事でした。
 今では、ロシアに5つほどの聴覚障害教育を行う大学があるそうです。

〇韓国での仕事

 韓国でも、私は国立西活福祉大学とナザレ大学の2つの大学設立に関わりました。
 国立西活福祉大学が作られた経緯には、筑波技術大学を超える大学を作りたいという、その目的を達成すればよいという事で設立が決まりました。
 では、どうすれば超えられるのか? と考えた時に、より広い障害の分野を集めた総合大学にすればよいと言う事になりました。ですがこれは失敗しました。聴覚障害者だからこそ専門の大学が必要であって、他の障害では必要とされなかったんです。
 先ほどお話ししたギャローデッド先生も聴覚障害の専門大学しか作らなかったのはそういった理由があったからです。
 聴覚障害者が高等教育を受けるには「情報保障」のされている大学が必要不可欠だからです。
 そこが問題の本質なのに、国立西活福祉大学では全ての障害に関わる教育をやろうとした。結果として、聴覚障害の学生が置いてきぼりになってしまったんです。今は見直しをしている最中ですね。
 こうした国際的な動きを見ていかないといけない、それが第1の提言である「世界に飛び出そう」という事です。

〇世界に飛び立つきっかけ

 さて、私が世界に目を向けるようになったきっかけですが、1975年に東京の帝国ホテルにおいて日本で初めての国際会議が開かれました(図9)。
 私は当時20代の若者で、宮城ろう学校の代表として会議に参加しました。そこで私はとてもショックを受けたんです。
 その時の特別講演において、脳波聴力検査の発明者でありノーベル賞候補のデービス博士と、聴覚障害教育学のパイオニアであるシルバーマン博士の記念講演を聴きまして、聴覚の世界の奥深さを感じたんですね(図10)。
 後のアメリカ留学の際、ワシントン大学中央ろう研究所において、この二人のもとで勉強する事になるんです。
 そして、私がアメリカから帰国して就職先を探している時に、今井秀雄先生と言う人からお誘いを頂いたんです(図11)。ですが、私を宮城ろう学校の乳幼児教室で待っている親子連れもいましたので、県に掛け合って復職させて頂きました。今回はちゃんと県の職員としてお給料を頂ける形にして頂いたので、とても助かりました。
 その後、今井先生から再度のお誘いを受けまして、昭和大学の研究所にお世話になる事になりました。
 昭和大学では、日本全国から難しい難聴を持った子供を診る外来を開いていたんですが、私はそこの岡本途也教授の元に10年居ました(図12)。大変に厳しい先生でして、若い先生なんかは岡本先生の前では声も出なくなるような感じでした。本当は人情味の厚く慈悲深い先生なんですけどね。
 この先生の医局のカンファレンスで、いかにみんなで知恵を出し合って患者さんに対応するかを検討します。学校の先生ってそれがないんですね。全部自分一人で判断して成績をつけてしまいます。
 医局ではそんな事は出来ませんので、若い耳鼻科医の先生もメキメキと成長していきます。これも医学の世界が育てる後継者教育なんだと、身をもって体験しました。 

つづく

(図9) (図9)

(図10) (図10)

(図11) (図11)

(図12) (図12)