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みみ、はな、のどに関する病名、症状などの用語集

県立聴覚支援学校 特別講義 聴覚障害に携わる方々へのメッセージ

●はじめに

 2017年6月6日(火)、院長が学校医を務める聴覚支援学校(旧ろう学校)にて、院長とは昔からのお知り合いである筑波技術大学・名誉教授の大沼直紀先生(図1)による特別講義が行われました。
 2012年6月に開催しました当クリニックの開院20周年記念講演会では座長をお務め頂きまして、院長とはとてもご縁が深い先生です。

(図1) (図1)

大沼Dr.

 皆さんこんにちは。

 一昨年ここでお話しさせて頂いたばかりですけど、新しい先生もおられますので、同じような話が繰り返されるかも知れませんけれども、どうぞ宜しくお願いいたします。
 私にとっての仙台とはまさに原点と言いますか、思い出深い土地でもあります。なので、少し時間をオーバーしてしまうかも知れません。

〇高等部から中学部へ(図2)

 この写真は、私が本校(当時は宮城ろう学校)に赴任して高等部から中学部に移って、学生と遠足に行った時ですね。
 この頃の私は、ろう教育そのものにあまり愛着を感じずにいました。いわゆる「でもしか先生」だったんですね。戦後の教師が不足していた時期で容易に先生という職業に就けた時代でした。
 ですが、当時受け持った生徒が大きくなり、結婚して子供が生まれ、その子の教育を受け持つといった巡りあわせがありました。

(図2) (図2)

〇中学部から幼稚部へ(図3)

 写真は、幼稚部に移ってから何回目かの卒業式ですね。私も低学年への教育にシフトしていった時期です。
 このお子さん達が大きくなって子どもが生まれたんですけど、その半分くらいが難聴でしたね。そして私が聴力検査をしたり、相談を受けたりしました。

(図3) (図3)

〇乳幼児教室を設立(図4)

 ある時、幼稚部の附属ではなくて単独の乳幼児教室を作りたいと言う事で私が作ったんですが、写真はその幼稚部のお誕生会の様子です。
 実はこの乳幼児教室を作った時期というのは、まだまだ世間に難聴児教育が知れ渡ってはいなかったですし、義務教育を行う学校が0歳児から子どもを預かって教育を行うことは、制度上では認められてはいませんでした。
 これは今でも変わってはいないんですけど、その当時は今よりも理解が得られない時代でした。どうして0歳児から子どもを預けて教育しなければならないんだ? と言う冷たい目で見られました。
 ですが、0歳児からでも音の刺激を与える事が絶対に良い事だと信じて、私自身は手探り状態でやっていました。

(図4) (図4)

〇手探りの専門性(図5)

 例えば、1歳未満の赤ちゃんの耳に補聴器を付けようとしても嫌がられてしまいますし柔らかい耳介(耳たぶ)にどんな補聴器が付けられるのか、どの程度の音質・音量で調整すればよいのか、却って補聴器を付ける事で音響性外傷になってしまい難聴を増悪させてしまうんじゃないのか、と言う不安がありました。
 また、山形や福島、岩手などの県外からも乳幼児教室に来る人がいました。
 そして、その子たちの親からは質問が寄せられるんですが、私は赤ちゃんの専門家ではありませんので、その質問の一つ一つにお答えする事が出来ませんでした。ですので、後日に回答すると伝えて、様々な研究者に連絡を取って情報を得た上で回答をしていました。言い換えれば、乳幼児教室に通う子の親に勉強させられて成長してきたと言えます。
 そんな時代を過ごして、私がこの仕事に就いてから50年が過ぎました。そこで10年区切りで私の仕事を振り返ってみたいと思います。

(図5) (図5)

〇1970年代(早期教育の芽生え)

 まず1970年代ですが、日本全体に聴覚障害児に対する早期教育の機運が動き始めた時代でした。
 ちょうどこの時、私は先にお話しした乳幼児教室を始めました。

〇1980年代(聴覚補償)

 1980年代は、残存聴力を有効活用した方が良いと言う動きがあり、聴覚を補う事が熱心な時代になります。
 その時の私は、乳幼児教室をやるのに勉強不足を実感していましたので、アメリカ留学を決心しました。
 当時のアメリカでは、耳の聞こえない赤ちゃんの耳を使えるようにするというオーディオロジー(聴覚障害補償学)と言う学問が盛んに研究されていました。
 日本にも耳鼻咽喉科学会傘下のオーディオロジー学会がありましたが、耳鼻科医の中でもあまり知られていない狭い領域の学会でした。
 そして、アメリカのワシントン大学医学部附属の中央ろう研究所(CID)でオーディオロジーを学んで帰国しまして、国立特殊教育総合研究所(特総研)、昭和大学の耳鼻科外来で働きつつ「耳を使う」という事を一生懸命に推し進めました。

〇1990年代(手話と人工内耳の対立)

 1990年からは手話の時代になりました。
 今でこそテレビなどでは手話通訳がついたりしていますが、それまでは無かったんですね。それが、手話がどんどん社会に浸透していき、手話通訳者が育っていった時代でした。
 すると、今まで手話を使ってこなかった人たちが、どんどん手話を使うようになり自信を持つようになっていきました。
 逆に、難聴イコール手話という固定概念が広まるという危機感も生まれました。
 それと同時期に人工内耳の適応が急速に広がりまして、手話を必要としない方法である人工内耳、それに対して外科手術を必要としない手話があるという、2つの考え方が対立する聴覚障害教育の課題が出てきました。

〇手話と人工内耳の共存

 その時、私は筑波技術短期大学の創設に関わりまして、聴覚障害を持つ青年たちと出会いました。その青年たちは大きく分けて半分がろう学校出身者、もう半分は一般の高校出身でした。
その姿を見て手話と人工内耳の論争をしている時ではないと思いました。

 その学生たちを見ていましたら、人工内耳であれ手話であれ、ちゃんと大学受験をして合格し、その両方を身に着けている青年に成長しているんですね。
 母親が難聴を持つ子供を病院に連れていくと、手話にするのか、人工内耳にするのか早く決めなさいと、選択を迫られるという悩みを抱える時代になっていました。
しかし、すでに社会にはその両方の考え方を身に着けた青年たちが育っていたんです。

 それであれば、あえて手話と人工内耳を2つに分けて対立軸を作るのではなく、どちらも勧めるようにしていったんですね。
 私なんかは補聴器の事しか話さないようなタイプだったので、その私から「手話も使うといいよ? 」と言うものですから、皆さんは驚かれたと思います。
 今では、耳鼻科医で手話通訳の資格保持者もいますし、聴覚障害を持つ耳鼻科医もずいぶん増えてきました。それに、以前であればろう学校の校長先生は手話を使わないのが当たり前だったのが、鳩原先生(宮城県聴覚支援学校 校長)をはじめ皆さんビックリするほど手話を使って意思疎通を図っています。

〇2000年代(情報保障)

 2000年代になると、聞こえを自分自身で補う「聴覚補償」から、周囲が聴覚障がい者へ伝わりやすいシステムを作る「情報保障」の時代に入りました。
 2010年代は、私が長く務めた筑波技術短期大学を辞めて、東京大学 先端科学技術研究センターに移りまして、新しく「聞こえのバリアフリー研究室」を設置しました。
 その時期になると、世の中では耳の問題だけを考えるのではなく障害全般について考える時代になっていました。
 私も70歳になって東大に入りまして、様々な障害を持った学生がいる事を知りました。
 その学生たちも、地元では特に優秀であったため障害を持っているという事を周囲に知られることなく東大に入ってきました。すると、いくら地元で優秀であったと言っても、東大では並の東大生という位置になるんですね。そこで初めて挫折を味わうんです。
 ただでさえ難しい授業に加えて、聞こえの障害などがありますので、周りとの差が出てきてしまい、やっていけないという風に感じてしまうんですね。
 そこで初めて「私、耳が聞こえないんです」と、20歳近くになって障害のあることをカミングアウトするのを見てきました。
 それで大学側もエリート教育だけではなくて、障害に対するバリアフリーの体制作りをする事になりました。そうして出来たのが先ほどの「聞こえのバリアフリー研究室」です。

〇現 在(バリアフリーとの衝突)

 現在は、聞こえのバリアフリー・コンフリクト(訳:衝突、対立など)の時代になっていると思います。  1つの障害だけに集中するのではなく、障害全体の事を考えなければいけなくなりました。そのため、ろう学校としての専門性は低下してしまった面もあります。
 1つの障害の事だけを考えているとあまり良くない事がおきる時代、それがバリアフリー・コンフリクトの時代です。

〇これからの10年間(需要と対策)

 今後の10年間では、ひょっとするとまた世の中が大きく変わって、ろう学校は何をすべきか? 難聴児教育の専門性とは何なのか? 言語聴覚士と何が違うのか? 耳鼻科医のやる事と何が違うのか? と言う事の見直しがあると思います。
 これは最新のニュースですが、2016年に全国のろう学校公聴会が、聴覚障害乳幼児の教育相談の実態報告をしました。
 どうして調査を行ったのか。先ほどお話ししたように乳幼児教室はもぐりだし、今でもろう学校が0~2歳の教育をやることに何の保障もないんですね。ボランティアなんです。
 しかし、その需要がどんどん高まってきて、しかも効果が出てくるもんですからやり続ける事になって、今では当たり前のように全国のろう学校には相談窓口があります。学校によっては一番子供が多いのは、乳幼児教育相談の部署という学校もあります。
 そのため、ろう学校の評価をする時に、乳幼児教育相談の人気がどれ位あるのかで、そのろう学校のレベルが判断されると言う人すらいます。
 それなのに、乳幼児教室を担当する先生には何の保障もなく、学校内で担当する先生を捻出してもらってやっています。もちろん少しの補助はありますが。
 そんな状態ではいかんと言う事で公聴会が調査をしたんですが、0~2歳の乳幼児教室の相談窓口にくる人が1万5千件もあったんですね。こんなに多くの件数を無償でやっていていいのか? ろう学校の先生の負担が大きすぎるんじゃないのか? となりました。
 私の古くからの知り合いで衆議院議員の山東昭子さんと言う方がいまして、聴覚障害福祉協会の会長を務められていた時に一緒に仕事をしていました。その協会の事業として公聴会の調査をもっと広げて、国としての調査に匹敵するものをやろうという事で、いま実施している最中です。
 1つの事が回りだすと弾みが出るもので、議員の中からも興味を持つ人が出てきまして、今まで暗黙していた文科省も動き出しました。  これで、今まで保障のされなかった部分が改正されて、設備や教材・教具がきちんと揃えられるような時代になるかもしれません。

〇聴覚補償と情報保障

 先ほどお話しした「聴覚補償」と「情報保障」の2つは、手話通訳や要約筆記の世界でも混同され漢字も間違われることがあります。 簡単に説明すると「聴覚補償」とは、本人が頑張って補聴器を使ったり人工内耳の手術を受けるなどして、障害を自分で軽くしていく努力をする事です。

 もう1つの「情報保障」とは、いくら本人が頑張っても出来ない事は出来ないので、周りがその子に情報を伝えやすい状態を保ってあげる事です。
 この2つの考え方の内、前者の聴覚補償は十分になされてきましたので、今後は後者の情報保障をやっていこうと言う機運が高まっています。
 人によっては、手話通訳者を付けてあげる事が情報保障だと捉える人もいますがそうではなくて、手話も、要約筆記も、字幕提示も、磁気ループを貼る事も、そういった事もすべてが難聴の耳に情報が届くように周りの人が仕組みを考えていくことが情報保障です。
 この情報保障の良い例として、良い補聴器と人工内耳を付けている子が授業を受けていて、新しく赴任した先生の話だけが良く分からないと言う事があります。これは、聴覚障害を持つ子にとって新しい先生の話し方が分かりにくかったためです。
 情報保障の時代では、そういった事に周りが気づかなければならないんです。
 私も含めて、若い頃は刺激のあるメリハリのつく話し方ができたのですが、年を重ねてくるとどうしても会話の間が下手だったり、声が枯れていたり、聞きにくいテンポになったりするんですね。
 なんにせよ、周囲の人が聞き取りやすい話し方をするマナーを身に着ける、これだけで難聴者や人工内耳を使う人、補聴器を付けた人はずいぶん助かるんですよね。

〇バリアフリー・コンフリクトとは

 そして、先ほどバリアフリー・コンフリクトと言う話をしました。
 人類は時間をかけて文明を、歴史を重ねてきましたが、いくつかのバリア(障壁)にぶつかって乗り越える事で発展してきました。

〇第1バリア(物理的障壁)(図6)

 まず第1のバリアが「物理的障壁」です。
 川向うに肥沃な土地があるのに川を渡る手段がない。または山脈を超えた先に豊かな土地があるのに物理的に越えられなかったという障壁です。これが誰もが思いついたバリアだったんですね。
 この第1のバリアは文明の発展とともに無くなっていきました。
 それでも少なからず、駅にエレベーターが設置されていなかったり、まだまだ課題は残されてはいますけど。

(図6) (図6)

〇第2バリア(情報・文化の障壁)(図7)

 第2のバリアは「情報・文化」のバリアです。  まさに聴覚障害のバリアはこれだった訳で、字幕が無いのが当たり前だと思っていたテレビに字幕がつきました。この第2のバリアが取り除かれてきたのがつい最近です。
 このバリア除去が最初になされたのが目の見えない人に向けた物でした。聴覚障害と違い、目が見えないのは大変だと共感されやすい部分があったので、いち早くバリア除去が進んだんですね。

(図7) (図7)

〇第3バリア(法律の障壁)(図8)

 そして第3のバリアが「法律」のバリアです。人のために作られた法律が、逆に法律そのものが壁になってしまう例があります。
 最初にあったのが薬剤師を目指した女性の例です。
 彼女は薬学部に入って勉学を積み、いざ資格を取ろうとした時に薬剤師法では耳の聞こえない人は薬剤師資格が取れないという条文があったんです。これもつい最近まで書いてあったんですね。
 誰もが読み飛ばすようなところにそんな条文が書かれていたために、彼女は薬剤師になる事が出来なかった。まさに法律が壁となって邪魔をしたという事です。そういう法律がたくさんあるんです。
 これは変えないといけないと言う事で法律改正や、薬剤師のルールがどんどん変わっていきました。

(図8) (図8)

〇第4バリア(心の障壁)(図9) 

 第4のバリアは、人それぞれの心や意識に残る障害に対するバリアです。これが一番厄介で今でもこれはすごい訳ですね。
 第1~3のバリアはどんどん解決されてきています。つまりバリアフリーになってきたんですね。

(図9) (図9)

〇第5バリア(バリアフリー へのバリア)(図10)

 ところが、このバリアフリーのある部分が究極まで行きつくと変なことが起き始めました。バリアフリーが生み出す新しい第5のバリアです。
 例えば点字ブロックです。今では日本中に張り巡らされて、誰一人として反対する人はいませんでした。
 これだけ至る所に点字ブロックがあればさぞかし便利だろうと思っていましたが、実はアレが邪魔でしょうがなかったとか、アレさえなければ歩行が楽になると思って黙っていた人が、声を上げ始めたんですね。
 バリアを除去するためにやってきた事が行きつく前に、考えなければいけないバリアが生まれたんです。
 映画にもバンバン字幕が付いたんですが、そうすると「あの名シーンが台無しだ! 」という人が出てきて反対運動が起きたんですね。なので、障害のバリアフリー化をする時はその周囲にも気を配ってバランス良くしなければいけない時代になってきました。

つづく

(図10) (図10)