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ポーランド・スナップ集(1) アウシュヴィッツ強制収容所

はじめに

 2017年11月23日(木)~28日(火)にかけて、院長が中央ヨーロッパにあるポーランド共和国を訪れました。
 ポーランドと言えば、日本では負の遺産として記憶されている「アウシュヴィッツ強制収容所」を思い浮かべる人も少なくないのではないでしょうか。
 ここでは、現地の様子や資料をスナップ集にまとめましたので、ご紹介します。

〇アウシュヴィッツの位置(図1・2)

 スロバキアとの国境に近いポーランド第3の都市クラクフ、そこから南西へ60㎞ほどにある都市オシフィエンチム(ドイツ語:アウシュヴィッツ)が、強制収容所の建設された場所です。
 そしてヨーロッパ中から数百万人にも及ぶ人々(主にユダヤ人)が集められました。

(図1)ポーランド南部に作られた強制収容所 (図1)ポーランド南部に
作られた強制収容所

(図2)第1収容所の外観図 (図2)第1収容所の外観図

〇アウシュヴィッツ 強制収容所(図3)

 1940年5月、元々ポーランド軍の兵舎だった施設を再利用した第1アウシュヴィッツ強制収容所が建設されました。そして施設の設立からわずか1年余り後に、最大規模の第2アウシュヴィッツ(ビルケナウ)強制収容所が作られました。

(図3)強制収容所にはヨーロッパ中から人が集められました (図3)強制収容所には
ヨーロッパ中から人が集められました

〇働けば自由になる(図4)

 第1収容所の入口にはArbeit macht Frei(働けば自由になる)と書かれた鉄製の看板があります。ここをくぐった多くの収容者が、過酷な労働や劣悪な衛生環境での感染症、または処刑によって命を落としました。

(図4)第1収容所のゲート (図4)第1収容所のゲート

〇死の門(図5~7)

 第2アウシュヴィッツ(ビルケナウ)強制収容所の入口にあたる監視塔のゲートは、一度中に入ったら生きて出てこられないという揶揄から《死の門》と呼ばれていました。

(図5)第2強制収容所の「死の門」 (図5)第2強制収容所の「死の門」

(図6)列車から降ろされた収容者 (図6)列車から降ろされた収容者

(図7)この貨車に可能な限りの人が詰め込まれました (図7)この貨車に可能な限りの人が
詰め込まれました

〇高圧電流の流れる有刺鉄線(図8)

 強制収容所の周囲には、約220ボルトもの高圧電流の流れる有刺鉄線が2重に設けられています。過酷な現状に耐えられなくなった人が、わざと有刺鉄線に手をかけて感電死する事があったそうです。第1収容所では周囲2km以上、第2収容所に至っては周囲12㎞にも及ぶ有刺鉄線で囲われていたそうです。

(図8)収容所を囲む約200ボルトの高圧電流が流れる鉄条網 (図8)収容所を囲む約200ボルトの
高圧電流が流れる鉄条網

〇バラック(図9)

 1つの寝台に複数人が寝ていました。

(図9)1つの寝台を数名が利用していました (図9)1つの寝台を数名が
利用していました

〇ガス室(図10・11)

 鉄道などで移動してきた収容者は選別され、労働に耐えられそうにない人はガス室に送られました。

(図10)第1収容所のガス室 右上がガスの出口 (図10)第1収容所のガス室
右上がガスの出口

(図11)ガス室の模型 (図11)ガス室の模型

〇使用されたガス・チクロンB(図12)

 収容所で使用されたガスは、元々シラミ対策用の殺虫剤に使われていたチクロンB(青酸ガス)という物質です。揮発性が高いため金属缶に入れて保管されていました。

(図12)青酸ガスを生み出すチクロンB (図12)青酸ガスを
生み出すチクロンB

〇焼却場(図13・14)

 遺体を焼くための焼却場です。

(図13)煙突が立ち並ぶ焼却場 (図13)煙突が立ち並ぶ焼却場

(図14)焼却場の内部 (図14)焼却場の内部

〇遺灰が投げ込まれた池(図15)

 遺灰は収容所近くの池に投棄されたそうです。

(図15)遺灰が投棄された池 (図15)遺灰が投棄された池

〇遺灰(図16)

 収容者の遺灰が残されています。

(図16)遺灰の一部が残されています (図16)遺灰の一部が残されています

〇破壊されたガス施設(図17~19)

 戦争末期、ドイツ軍は虐殺の証拠隠滅をはかるために収容所施設を爆破したそうです。

(図17)ドイツ軍の撤退時に破壊されたガス室 (図17)ドイツ軍の撤退時に破壊されたガス室

(図18)破壊された当時の姿のまま保存されています (図18)破壊された当時の姿のまま
保存されています

(図19)何に使われていたかも分からないほど破壊されています (図19)何に使われていたかも
分からないほど破壊されています

〇収容者の遺品(図20~25)

 博物館に納められた膨大な数の遺品。

(図20)ヘアブラシ (図20)ヘアブラシ

(図21)眼鏡 (図21)眼鏡

(図22)義足 (図22)義足

(図23)靴 (図23)靴

(図24)鞄 (図24)鞄

(図25)アンネ・フランクの姉マルゴットの名前が記された鞄 (図25)アンネ・フランクの姉
マルゴットの名前が記された鞄

〇犠牲者の写真(図26)

 博物館となった第1収容所跡には、犠牲者の写真が数多く残されています。

(図26)犠牲者の写真 (図26)犠牲者の写真

〇処刑台(図27)

 戦後、収容所の所長を務めたルドルフ・フェルディナンド・ヘス(副総統のルドルフ・ヘスとは別人)が絞首刑に処された処刑台です。

(図27)収容所所長ルドルフ・ヘスが処刑された絞首台 (図27)収容所所長ルドルフ・ヘスが
処刑された絞首台

解説

 第二次世界大戦中、アドルフ・ヒトラー率いるドイツ・ナチによって建設されたアウシュヴィッツ強制収容所は、ポーランド南端にあるオシフィエンチムという街に作られました。
 このアウシュヴィッツという地名も、現地語の町名であるオシフィエンチムをドイツ語に変えた地名です。世界的にはドイツ語表記であるアウシュヴィッツが広く認知されています。
 戦前はポーランド軍の兵舎として使われていましたが、第二次世界大戦勃発後の1940年半ばにナチ親衛隊(以下、SS)が管理するアウシュヴィッツ強制収容所が設置されました。
 ちなみに、収容所設立の1年前、1939年5月には日本とソ連との国境紛争・ノモンハン事件が発生。同年8月には日本の外交官・杉原千畝がリトアニア(バルト三国)に赴任しています。
 当初は、主にポーランド人の政治犯を収容する施設でしたが、戦争の長期化に伴いヨーロッパ中のユダヤ人等が集められた事により施設は拡張され、街を囲むように大規模収容所である第1~3強制収容所に加えて、その周囲に40を超す小規模収容所が建てられました。
 その内、最大規模だったのが第2アウシュヴィッツ(ビルケナウ)強制収容所です。
 オシフィエンチムの西にあるブジェジンカ村に建設された第2収容所は、初期の第1収容所と比較してもその敷地面積は30倍近くにまで膨れ上がり、東京ドーム37個分に相当する1.75平方キロメートルもの敷地に約300以上の施設が建てられました。
 そしてドイツの占領下におかれたヨーロッパ各地のユダヤ人、ソ連軍捕虜など合わせて約150万人がこの収容所群に送り込まれ、ソ連軍に開放される1945年1月までにその大半が命を失ってしまいました。
 主に鉄道を使って集められた人たちは、まずSSの医師によって女性と子供、男性の2組に分けられました。そして、健康で労働可能な人達は収容所に収容され、それ以外の老人や病人、妊婦などはガス室送りにされたと言われています。
 収容された人達にとっても、収容所での生活は悲惨な状況でした。

 収容者が生活するためのバラックには、その1軒分に数百名が押し込められ、収容者が寝るための寝台も1台に平均5名がすし詰め状態で利用していたそうです。

 また、衛生状態も劣悪だったためにネズミやシラミが大量に発生していました。そのため収容者の間では発疹チフスといった感染症が流行し、病死する人も多くいたそうです。
 「アンネの日記」で世界的に有名となったアンネ・フランクも、第2収容所から移送された先であるドイツ北部のベルゲン・ベルゼン強制収容所にてチフスで亡くなったと記されています。
 亡くなった人の遺体は施設内にある焼却場で焼かれた後、その遺灰は収容所近くの池に投げ込まれたそうです。
 しかし、ソ連軍によりドイツ軍が、収容所の廃棄が決まると、SSは証拠隠滅のために一部の収容者を除く約6万人をドイツ国内に移送する傍ら、収容所の主要施設を爆破しました。
 終戦から約30年後の1979年、アウシュヴィッツ強制収容所はユネスコの世界遺産に登録されました。現在は「アウシュヴィッツ=ビルケナウ─ドイツ・ナチの強制・絶滅収容所(1940年─1945年」の名称で登録され、年間100万人を超える来場者が足を運んでいるそうです。