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みみ、はな、のどに関する病名、症状などの用語集

2016年アレルギー調査レポ6 〜ノモンハンを巡る旅〜 総務課 青柳 健太

 引き続きまして2016年中国アレルギー調査レポートをご紹介します。

●5日目 9月18日(土) 満州里 → アル山

 シベリアから吹き込んでくる北風が肌にヒンヤリと感じる早朝の満州里(図1)。
 実質1日と滞在していませんでしたが、広大なユーラシア大陸ならではの雰囲気を味わえる、貴重な機会となりました。
 さて、今日は満州里からひたすら540㎞南にあるアル山市を目指して移動します。日本の地理で言えば仙台・名古屋間くらいの距離はあるでしょうか。
 途中、内モンゴル自治区とモンゴルとの国境を流れるハルハ川の中流域にある、日ソの国境紛争の起きたノモンハンに立ち寄ります。
 ノモンハンについての詳細は本誌261号をご参照下さい。
 車は一旦、有料道路である海満一級公路を東に向かい、途中からG301号線で南下します。その内に道は“少し”路面のあれた市道へと移り、昨日訪れたホロン湖の東側をひた走ります(図2)。
 車窓から臨む景色は周囲360度が草原に囲まれ、時折羊や牛の群れが放牧されているのが目にとまります。
 とにかく視界を遮る物がありません。目が慣れてくると数10㎞先の鉄塔や建造物などのランドマークが見えるようになってきます。
 テレビでアフリカなどに住む常識外の視力を持つ人の話が出てきますが、実際にその環境に置かれると、それが普通なのだなと納得できました。人間の適応力とはすごいものです。

○昼食「乾徳門」

 ただ車に乗っているだけでもお腹は空くものです。昼食をとるため立ち寄った新バルグ左旗という町では、後発の調査メンバーである稲福 繁 先生(愛知淑徳大学)、稲川 俊太郎 先生(稲川耳鼻咽喉科)、志賀 敦 先生(志賀耳鼻咽喉科)、佐藤 圭 先生(さとう耳鼻咽喉科)、清水 崇博 先生(土岐市総合病院)の5名と合流しました。
 ちなみに、町名の最後につく“旗”は地方の行政単位として使われる単語です。
 賑やかになった一行は、まずは食欲を満たすためにレストランへ移動します。

(図1)蒼天の満州里 (図1)蒼天の満州里

(図2)果てしなく続く大草原 (図2)果てしなく続く大草原

○ツァイ茶(図3)

 チベットでも大いに話題になったバター茶のモンゴル版です。この地方では馬乳をベースにしているそうですが、臭みはなく薄めのミルクティーのようです。

○豚肉とニンニクの芽炒め(図4)

 細切りにした豚肉をニンニクの芽と一緒に炒めた料理です。ニンニクの芽のシャクシャクとした食感と豚肉の塩味は相性抜群で、これをご飯にのせてかきこめば何杯でも食べられます。

○インゲン豆と豚肉の唐辛子炒め(図5)

 唐辛子のピリッとした辛みのアクセントと、インゲン豆のクキュクキュとした食感が後を引きます。地方によって山椒が入っていたり、ひき肉が入るなどバリエーション豊かな人気料理です。

○チンゲン菜の豆鼓醤炒め(図6)

 中国の調味料である豆鼓醤は、蒸した大豆を塩漬けにして発酵させた味噌のような調味料です。味は少ししょっぱ目ですが、どこか慣れ親しんだ風味です。

○春菊とキノコの醤油炒め(図7)

 見た目は春菊とは少し違う野菜ですが、香りは春菊のそれです。醤油でサッと炒めたシンプルな調理法ですが、その分野菜の歯ごたえも楽しめる一品です。

○豚肉と野菜の塩味スープ(図8)

 こちらは、少し塩が強めのスープで、あまりコクも感じられませんでした。体を動かす仕事の人も食べにくるようなので、ニーズに合わせたスープなのかもしれません。

(図3)意外とまろやかな馬乳茶 (図3)意外とまろやかな馬乳茶

(図4)豚肉とニンニクの芽炒め (図4)豚肉とニンニクの芽炒め

(図5)インゲン豆と豚肉の唐辛子炒め (図5)インゲン豆と豚肉の唐辛子炒め

(図6)チンゲン菜の豆鼓醤炒め (図6)チンゲン菜の豆鼓醤炒め

(図7)春菊とキノコの醤油炒め (図7)春菊とキノコの醤油炒め

(図8)豚肉と野菜の塩味スープ (図8)豚肉と野菜の塩味スープ

○骨付き羊肉の焼肉(図9)

 1日1回は食卓に並ぶ羊肉の焼肉です。日本の羊に比べて臭みはあまり感じません。味付けは至極シンプルで、付け合わせのソース類をつけて食べる機会が多い料理です。  脂は見た目ほどではなく、むしろ軽めな印象がありました。

○ナスとインゲン豆とハム炒め(図10)

 素材を醤油で炒めて、水溶き片栗粉(多分)でトロミをつけてあります。ナスと炒め物の相性は抜群で、豚肉のハムから出る旨味と合わさってコクを生み出しています。  これもご飯にかけて食べるとたまらないですね。

○豚肉とキノコの香り炒め(図11)

 肉厚のキノコ(エリンギ?)の香りが主役と言える料理です。キノコは醤油ベースのタレがその身に良く染みこんでいるため、歯ごたえを楽しみつつ、噛むほどに味わい深さとキノコの香りが口中に広がります。

○豚肉のダブル唐辛子炒め(図12)

 アッツアツの豚肉は片栗粉の衣で覆われ、そこに醤油タレがしみ込んでいます。辛さよりも熱さが自己主張してくるため、細かい味がわからなくなってしまいました……。

○小麦粉の焼餅(図13)

 餅と書いてありますが、日本の餅とは異なり小麦粉を薄く延ばして焼いた食べ物です。
 この小麦粉を使った料理は、中国料理の様々な場面で見かけます。例えば饅頭や餃子、北京ダックの皮も同様です。
 切れ込みがあるので、中に料理を挟み込んで食べると、これがまた美味しい……。食卓に並んだ多くの料理を、この餅に挟んでお腹に納めます。

(図9)骨付き羊肉の焼肉 (図9)骨付き羊肉の焼肉

(図10)ナスとインゲン豆とハム炒め (図10)ナスとインゲン豆とハム炒め

(図11)豚肉とキノコの香り炒め (図11)豚肉とキノコの香り炒め

(図12)豚肉のダブル唐辛子炒め (図12)豚肉のダブル唐辛子炒め

(図13)小麦粉の焼餅 (図13)小麦粉の焼餅

○ノモンハン戦争陳列館(図14)

 食後、またしばらく草原の中を車に乗っていると、視界に灰色の四角い建物がポツンと佇んでいるのが見えてきました。ここは、今回の調査の主目的の1つであるノモンハン戦争陳列館です。
 展示館の外には、期待した事件当時の戦車が展示されている! と思いきや、木などで製作されたレプリカの車両しかありませんでした……(図15)。
 ちなみに、このレプリカの基となった車両はソ連製のBT−7という快速戦車です。主に騎兵部隊などへの支援を目的とした車両で、速度と航続力を重視して作られました。
 転輪(車で言う車輪)が大きく作られているのも、高低差を乗り越える走破性能より、速度性能を活かした設計と言われています。
 本紙264号でもご紹介しましたが、これら一部のソ連戦車の転輪を支えるサスペンションには、クリスティ式というアメリカ人技術者の開発した装置が使われています。
 アメリカ人の開発した装置がソ連で使われ、なおかつその装置によってソ連に名作戦車が出来てしまったなんて、歴史の面白さを感じてしまいます。
 この施設ではノモンハン事件に関する資料や実際に使われた各種の道具・武器などが展示されています。ただ、後から写真を見返してみると、これは本当にノモンハン事件当時の物なのか……と疑問符がついてしまうものもチラホラ(図16~21)。
 出発前に日本でインターネット検索したところ、ノモンハン事件を記録する施設などの情報はほぼ見当たらず、個人のブログなどで草原に遺棄された車両の写真が見つかる程度の情報しかありませんでした。
 どうも、紛争後の混乱期に乗じて大破した戦車や装備品は持ち去られて、その多くは溶かされるなどして再利用されたのではないかと言われています。
 よくよく考えてみると、ノモンハン事件は日本と満洲国、ソ連とモンゴルが当事者のため、中国側ではあまり記録を残す必然性が低かったのかもしれません。  1時間ほど施設を見学した一行は、再び車に乗り込みアル山市へと歩を進めます。

(図14)まるで砦のようなノモンハン戦争陳列館 (図14)まるで砦のようなノモンハン戦争陳列館

(図15)ここまで来て……と、思わず零れるレプリカのBT-7戦車 (図15)ここまで来て……と、思わず零れる
レプリカのBT-7戦車

(図16)小銃の先に付ける銃剣 (図16)小銃の先に付ける銃剣

(図17)戦場で使用した軍用電話 (図17)戦場で使用した軍用電話

(図18)ソ連軍の軍用自動拳銃トカレフTT-33 (図18)ソ連軍の軍用自動拳銃トカレフTT-33

(図19)下士官用の1935年制定陸軍95式軍刀 (図19)下士官用の1935年制定陸軍95式軍刀

(図20)ソ連軍のBT-7戦車の履帯(キャタピラ) (図20)ソ連軍のBT-7戦車の履帯(キャタピラ)

(図21)恐らくソ連軍の砲対鏡(距離などを測る道具) (図21)恐らくソ連軍の砲対鏡(距離などを測る道具)

○書籍「諜報の天才 杉原千畝」を読んで

 本レポートは、同時収録のバルト三国ツアーレポと連動して、広大なソ連(ロシア)の東西両端で起きた出来事の結びつきを探るため、筆を進めてきました。
 本誌265号では杉原千畝というキーワードによってソ連の東で起きたノモンハン事件、西で起きたユダヤ人難民に対する「命のビザ」発給に至る流れが、一連の出来事として歴史的に繋がっている事が再確認できました。
 そして、それを裏付けるように白石仁章氏の著作「諜報の天才 杉原千畝」には、私たちが訪れた中露国境の街「満州里」に杉原が、後藤新平により設立された、ハルビンの(本誌241号)日露協会学校の分校生時代に訪れて優秀な成績を収めていたこと。
 この下積み時代に杉原は、白系ロシア人(共産主義⦅赤化⦆に反対するロシア人)との間に交流を持ち、その情報網を駆使することによって、ソ連の所有する北満州鉄道の割譲交渉を、日本側に有利に進める成果を挙げたこと。
 しかし、活動の足取りを掴ませない杉原は、ソ連側にとっては恐怖以外の何物でもなく、その対抗措置として国際通例上では異例となる一館員に対する「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」の指定がなされたこと。
 その措置をきっかけとして、日ソ両国は互いに外交官へのビザ発給を許可しない報復合戦へと発展し、1939年ハルハ川河岸のノモンハンにて武力衝突するに至ったこと。
 武力行使に意欲を見せる軍部に対して、装備に劣る日本軍の現状に不安を抱いた政府首脳部が、同年秋、外交努力によって解決を図るために杉原ら対ソ連エキスパートたちをその周辺国(北欧や東欧)に送り込んだ事が書かれていました。

○ソ連側からみたノモンハン事件

 日本側から見たノモンハン事件と言えば、貧弱な装備の日本陸軍が強国であるソ連陸軍にコテンパンにやられてしまったというのが、今日では一般的な認識です。
 ですが、ソ連側の戦後報告などと併せてみると決して日本の装備が通用しなかった訳ではなかったようです。
 日本軍の所有した対戦車砲(口径37㎜)はソ連戦車に対して十分な威力を持ち合わせており、ソ連軍の装甲車両の被害の約8割(300両強)は、この対戦車砲による物とされています。
 また、この時代の戦車はあくまで対陣地・対歩兵を目的として作られているため、搭載されている主砲も口径が小さく、長さも短い短砲身が主流でした。
 先にも述べたソ連軍の主力戦車であるBT−5やBT−7は、速度性能を重視した設計になっているため日本軍の戦車に対して有利な位置を確保できる機会が多く得られた事、そもそもソ連の物量が日本に比べて豊富だった事は忘れてはいけない要素ではないかと思います。
 両軍ともに戦車の被った被害は対戦車砲によるものが過半を占めており、そこに加えて圧倒的な速度で進軍するソ連軍戦車のイメージが、日本軍戦車がまったく通用しなかったという風に映った可能性も否定できません。
 ソ連はこの戦いにより、元々主張していた国境線であるハルハ川の東10数㎞の地点を事実上の国境とする事が出来ましたので、ソ連側の戦略的勝利であったと言えます。
 どちらにせよ、東側の騒乱にひとまずの決着を見たソ連は、背中を気にすることなくドイツと結んだ不可侵条約(と秘密議定書)に基づき、ポーランドの割譲やバルト三国のソ連化にいそしむ事になります。つづく