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みみ、はな、のどに関する病名、症状などの用語集

「花粉症」日英中比較考現学 院長 三好 彰

 この記事は、1999年5月に発行された文藝春秋「諸君!」による依頼原稿です(図7参照)。

花粉症は戦後から

 第二次世界大戦の前にはその存在すら知られなかった花粉症が、猛威を振るっています。あまりの流行ぶりに、スギ花粉症は日本人の国民病だとさえ騒がれます。
 けれどもスギなどの花粉によるアレルギーつまり花粉症は、日本特有のものでしょうか。それに戦前はみられなかった花粉症が、近年こんなに増加したのには、いったいどんな訳があるのでしょう。
 ここでは私たちの疫学調査のデータを核にして、さまざまの文献から花粉症のルーツやスギのルーツなどに迫ってみたいと思うのです。
 日本人の国民病・花粉症のそもそものルーツは、実は英国にあります。

ルーツは枯草熱

 19世紀初め頃、英国の農民が牧草を刈り取って乾燥のためにサイロに収納する際、人によっては鼻からのどにかけて焼け付くような痛みと痒みが生じ、くしゃみ、鼻水、鼻詰まりと涙の止まらなくなることがありました。そしてこの症状を、当時一般的に「枯草熱」と称していました。
 それを医学的に初めて報告したのは英国の学者ボストークで、同じく英国のブラックレーは枯草熱がイネ科植物の花粉に起因していることを明らかにしました。
 こうして枯草熱は「花粉症」と呼ばれるようになり、のちに花粉によるアレルギー反応であることが判明します。
 こうした英国における花粉症は牧草であるイネ科、ことにカモガヤによるアレルギーでした。そして英国では牧草地が多く、花粉症の原因であるカモガヤが繁殖し易いのです。
 それでは、なぜ英国では19世紀初頭に牧草地がそんなに広大になっていたのでしょう。
 英国が7つの海を制覇し大英帝国の名をほしいままにしたのは、1588年のスペイン無敵艦隊撃破以来のことでした。そのとき英国海軍は、圧倒的な勢力であったスペイン艦隊に舷側の砲門を使った新戦法で挑み、折からの暴風雨の助けもあってスペイン艦隊を撃退しました。
 その後の英国の世界への飛躍には、他のヨーロッパ諸国が政治的不安により、海外進出を計れなかったことが利していました。それに加えて、他のヨーロッパ諸国では海軍を編成するための木材が不足するようになったことも、大きな原因となっていたようです。  英国でも実は、軍艦を造るなど様々の目的からオーク材が切り倒されて、16世紀には「森林の消滅」と称される生態学的危機に見舞われていました。 
 事実1666年のロンドン大火は、その時代には1マイル四方の面積しかなかったロンドンの中心街「シティ」をほぼ全焼しましたが、この再建には火災対策もあって石材の家屋が用いられました。
 いかに法令により石材の使用が義務づけられていたにせよ、ロンドン全体が石造りの街になってしまったのですから、背景ではどんなに木材の枯渇が深刻だったのか、容易に想像できます。
 ほぼ同時期(1657年)、木材の豊富な江戸で発生した「明暦の大火」ではたちまちにして以前と同じ木造の家が建ち並びましたし、そもそもロンドンでは住宅に関する政府の建築制限など、それまで守られたことはあまりなかったのですから。
 ともあれこのロンドン大火によって、それまでロンドンの家造りの主流だったオーク材と漆喰造りの家屋は、ほとんど見られなくなりました。現在こうした造りの建築物はわずかに、シェークスピアで有名なグローブ座などに残されるのみです。
 そして英国は、1708年に開発されたコークスによる製鉄技術などいわゆる産業革命を迎えなければ、軍艦を製造する材料の欠如やそれを動かす燃料の不足のために、海軍力を保持できなかったといわれます。つまり7つの海で大英帝国が覇を唱えることができた最大の理由は、産業革命と称される工業化の促進にあったのです。
 なお産業革命以前に英国中からオーク材が切り出されて、森林の消滅した後は牧草地となりました。
 実際現在の英国の森林面積は、国土の9%に過ぎません。それに対し、森林の消滅した跡にできた牧草地は国土全体の45%にもなり、世界最高とされます。
 比較のために付け加えると、英国に先駆け世界の海を制覇した国々、例えばギリシャやローマでは森林の切り倒された跡はハゲ山となっています。こうした地域の乾燥した気候では、緑は再生しないのです。
 それに較べると英国など西ヨーロッパは牧草などの生育に適したやや湿潤な気候で、伐採の跡には牧草が生えて来ます。英国で森林が消滅し牧草地が増えたことは、そのままアレルゲン(アレルギーの原因物質)としてのカモガヤの繁殖につながり、人体においては花粉症の激増となって表れます。
 つまり、19世紀初頭の英国において花粉症のルーツであるカモガヤへのアレルギーが発見されたのは、決して偶然ではなかったのです。
 このいきさつから、花粉症増加の背景には何よりもアレルゲン絶対量の増加が存在することが、窺えるように思います。

日本におけるスギ花粉症の出現

 日本ではスギ花粉症は1976年に激増し、2回目の大飛散年である1979年には社会問題にまで発展しました。  一般的に杉は、樹齢30年前後から大量に花粉を飛散させるようになります。  戦後復興のために伐採されつくした全国の森林を、治山や治水などの目的もあって再建しようと杉が植樹されたのは1950年代です(図1)。ですから、植樹後30年を経過する1980年代に、日本国内の杉は一斉に花粉を飛ばすようになります。1979年以降のスギ花粉症の社会問題化に、時期的に一致します。
 杉の植林と治水の効果に関して、次のようなエピソードが知られています。
 スギ花粉症の多発する関東平野を流れる利根川は、戦後しばらく多大な水害をもたらしました。例えば1947年のカスリン台風の際には、赤城山と榛名山に降った約400ミリの雨によって、大被害が発生しています。このとき赤城山では山津波が生じ、土砂が利根川に流入しました。そのため下流の埼玉県栗橋付近で堤防が決壊し、東京都内だけで被害者38万人を出したといわれます。それに対して1981年の台風15号では、榛名山で590ミリの雨が降ったにも拘らず、被害は発生しませんでした。
 第二次世界大戦直後の赤城山の森林の状況は、群馬県林務部の資料によると樹木の生えていない部分が1割で、それ以外の部分も樹齢数年の広葉樹がほとんどを占めていました。その頃赤城山では、春先には全山ツツジの赤色に染まったと聞きます。そしてそれは、他にツツジの赤色を遮るほどの大きな木が存在しないからであったといわれます。
 現在の赤城山と榛名山は、樹齢30年以上の杉や檜に覆われています。こうした杉や檜は戦後水害に悩まされた地域の住民の、治山や治水の努力の結実なのです。これらの木々がアレルゲンである花粉を大量に飛散させながらも、利根川の氾濫から流域や都内の人々を守っている訳です。
 もちろんこの関東平野と同じような状況は、当時の日本の至るところで観察されたに違いありません。「♪これこれ杉の子起きなさい、お日さまニコニコ声かけた~♪」という「お山の杉の子」などの歌も、こうした背景のもとに歌いはやされたものと思われます。
 そして図1に見るように、樹齢30年を超えた杉の木が大変な量の花粉を撒き散らすようになり、治水の益を享受した日本人が同時にスギ花粉症に悩まされることになりました。
 たしかにスギ花粉症は大洪水と違い死者こそ発生しませんが、「国民病」などと有り難くない名前をもらう結果ともなった訳です。

(図1)

中国にもスギ花粉症があった

 そしてこのスギ花粉症は発見当時、日本固有の花粉症だと信じられていました。それはアレルゲンである花粉が、日本杉(Cryptomeria japonica, Cj)によるものだったからに違いありません。けれども、私たちが進めている世界各地における花粉症調査で日本以外にも、アレルギーの検査でスギ花粉に陽性反応を呈する例は、少なからず見られることが判りました。
 それは何と、お隣の国・中国においてなのです。
 私たちは中国においてこれまで南京市を中心に、上海市近郊の村・広州市・昆明市などで鼻アレルギー調査を実施してきました。するとこれらの地域のアレルギー皮膚検査では、数%前後のスギ花粉陽性例が確認されるのです。
 さらに文献で調べると、中国南部の降水量の多い地域ではスギ花粉飛散が報告されています。しかも中国には、柳杉と称される中国産杉(Cryptomeria fortunei, Cf)の分布していることさえ、印刷物に記されています。
 もしもこの柳杉が日本杉と同じものならば、あるいは同じ性質を持つものならば、中国にもスギ花粉症は存在するはずです。
 それにしても、日本特有と信じられていた杉の木は、いったいどうして中国に生えているのでしょう。
 杉はスギ科スギ属(現在ではスギはヒノキ科)の植物ですが、考古学的には約200万年以上前の第3期鮮新世から第4期更新世にかけてこの地上に出現します。そしてこの更新世の何回かの氷河期には、中国(アジア大陸)と日本は地続きになるのです。
 このとき日本には、大陸から多くの動植物が移動したとされます。ナウマンゾウやマンモスの化石が国内で出土するのも、そのためといわれます。
 そういえば人類はこの時期、陸伝いに世界を歩んだと伝えられます(図2)。現在でも南米の原住民に蒙古斑が見られるのは、アジア系の民族がこうして南米まで移住したためと聞いています(図3)。
 なお氷河期以前杉は、日本と中国だけでなくヨーロッパ大陸にも生えていました。けれども氷河期に、寒さゆえに東アジア以外のスギ属は消滅したとされます。
 それでは、これだけ狭い日本国内に杉が生き残ったのはなぜか。それに関して、氷河期とはいえまだしも温暖だった北緯37度以南の太平洋沿岸地帯の日本国内に、杉が逃避し残存したとする考え方があります。
 しかし私たちの仮説は、以下に示すようにそれとはかなり異なります。  氷河期の海面は現在よりかなり低く、大陸棚は露出し日本海は孤立、中国(アジア大陸)と日本は地続きでした。すると杉は陸伝いに大陸棚を寒冷時には南下し、温暖時には再び北へ移動するはずです。
 地続きだった大陸棚は今は海の底です。ですから私たちの仮説は、氷河期における杉の大陸棚移動説とでも名付けられるべき性質のものです。
 なお、杉の氷河期における逃避残存説は、ボーリングによって地層から採取された花粉の化石分析の成果をもとに、唱えられています。
 しかしこの根拠となる資料では、海面下の大陸棚の地層調査は実施されていません。
 大陸棚にスギ花粉化石の存在する可能性、すなわち氷河期に杉が大陸棚を移動したとの推測を、これらの資料ではまったく否定できないのです。
 それに加えて私たちの仮説を裏付けるのは、屋久杉の存在です。屋久島は温暖で、逃避残存説における杉の逃避地の条件を満たしています。
 しかし屋久島は距離的には、氷河期の杉植生の知られる中国本土からも本州や四国からも、植物地理学的に自然伝播機構(杉の場合には風による種子の散布)による分布範囲から孤立しています。
 ですから杉の逃避残存説では、屋久島の杉は最終氷河期以前から隔離分布していたと説明されています。
 でもこの説に全面的に従ったとしても、孤立分布に至る以前屋久島はどこかで、他の杉植生地域と自然伝播機構の可能な程度に連続していたはずです。
 この事実も、大陸と日本が地続きだった、そして屋久島を含めて、大陸棚一帯に杉が連続して生えていたと解釈するならば、何の不思議もありません。
 杉は氷河期には陸伝いに南下し、温暖期には北上した。その過程で温暖期の屋久島は大陸棚が水面下に没した後も、標高の高さゆえに海面から顔を出すことになった。
 これを後から観察すると、杉の連続分布の断裂という現象となり、まるで最初から屋久島は隔離分布していたように見える。そう理解すればよいのです。

(図2)

(図3)

第一症例の発見

 そんなことを調査しているうちに、とうとう私たちは、日本以外の国における初めてのスギ花粉症を発見しました。
 この方は32歳の女性で、1989年の春、南京市郊外の中山陵(孫文の墓)に遊びに行ったところ突然くしゃみ・鼻水・鼻詰まりが出現したとのことでした。この症状はそれ以来春と秋に強くなり、段々にひどくなって来たので、昨年私たちの外来を受診しました。
 いくつかのアレルギー調査で、明らかにスギ花粉に陽性反応を呈していて、この方は確実なスギ花粉症を診断されました。
 私たちの鼻アレルギー調査で、くしゃみや鼻水などの鼻症状がはっきりしていてスギ花粉症と診断されたのは、上海に近い江蘇省の青少年のうち、0.3%でした。この割合がもしもそのまま当てはまるものならば、江蘇省の約8千万人中、スギ花粉症の患者は24万人近くいるはずと推測できるのです。
 そして現在の中国では、花粉症などの鼻アレルギーは確実に増加しつつあります。それは私たちの南京医科大学耳鼻咽喉科外来を受診する鼻アレルギー症例が、この10年間で約2倍に増えたことからも判ります。
 中国でもいずれスギ花粉症は、国民病呼ばわりされるようになるかも知れません。
 もっともその前に、1つだけ確認しておかねばならないことがあります。柳杉は、本当に日本杉と同じものなのでしょうか。
 私たちはそれを確実にしておくために、中国の天目山の柳杉と屋久島の屋久杉とを、DNA分析によって調べました。
 比較の対象としたのは、天目山の自然林の柳杉と屋久杉そして伊豆大島の人工林の杉です。これらの杉の遺伝子を調べ、それぞれどの程度異なるのかを確認します。すると、いずれも天然林である天目山の杉と屋久島の杉のDNAはよく似ていましたが、人工林の伊豆大島の杉のDNAは前2者とやや異なることが判りました。
 実は天目山の杉と屋久杉とは外見的にはちょっと違って見えるところもあるのですが、DNAに関してはほぼ同一であることが証明されたのです。この2者と伊豆大島の杉のDNAの相違は、自然林と人工林という条件の違いによると考えられ、少なくとも天目山の杉と屋久杉は同じものだと判断されます。
 つまりやはり日本の杉と中国の杉は、もともと同一の起源に基づいており連続して分布していた。そして単に後から日本海によって分かたれたに過ぎない、という私たちの仮説が実証されたわけです。
 なお、スギ花粉症の発見されたばかりの中国でも、どうやら年々スギ花粉飛散量は増加しつつあるみたいです。それは1989年までに武漢市で測定されたスギ花粉の1年間の飛散量が1551個/平方センチメートルであったのに対し、1994年に同じ地域で測定された1年間の花粉飛散量が、5523個/平方センチメートルに増加していることからも想像できます。
 そして、もしも日本と同じような森林の伐採と杉の一斉植樹が30年前に行われていたならば、このスギ花粉飛散量の激増は説明がつきます。スギ花粉飛散の激増した1990年の30年前、いったい中国では何が起こっていたのでしょうか。

毛沢東の大躍進運動

 実は中国では1958年に毛沢東の号令一下、有名な大躍進運動が起こっています。
 世界の一流国に伍すべく、粗鋼の生産量を上げようと中国は狂奔状態に陥り、全土の森林は燃料として燃やし尽くされました。
 その有様は「ワイルド・スワン」にも詳述されていますが、中国の山々は結果的にほとんどハゲ山となったのです。
 そして現在もこうしたハゲ山が、戦後の日本の利根川と同じ理由で治水を妨げているのならば、最近話題になっている長江の氾濫は大躍進運動のもたらしたものと、考えられます。
 なおごく最近、中国では植林の重要性が強調されていますが、大躍進の直後から植樹が開始された可能性はあります。この際、他の多くの樹木と同様、杉が植栽されたようです。
 もしもその折に杉の植栽もなされていたならば、それらの杉は植樹30年を迎えていることでしょう。
 それにしても中国で植栽された杉は、どんな理由で数ある木々の中から選ばれたのでしょう。まさか利根川の治水に見習って、中国でも杉を植えようと考えた訳ではないでしょう。
 その疑問には、中国共産党が国民党に対抗し、1920年代に立て籠もった革命遥籃の地・井岡山(図4・5)の光景が、回答を与えてくれるというような気がします。なぜならこの井岡山は、全山杉に覆われているといってもよいくらい、柳杉の多い地域なのです。
 みごとな杉林の写真を十分にお見せできないのが残念ですけれど、ここでは杉並木の下で太極拳に興ずる市民の写真を、掲げます(図6)。杉の存在がいかに市民生活に溶け込んでいるのか、理解していただけると思います。
 そしてその時期、革命軍兵士はこれらみごとな森林の中で生活していました。また当時の毛沢東の寓居など今でも杉の木立を背景にひっそりと佇んでいます。おそらくこの緑を、共産党幹部たちも目の当たりにして、革命に荒んだ心を癒されたことでしょう。
 これらの鮮やかな緑に輝く杉の木を眺めながら、私たちは想像に耽るのです。もしかすると、大躍進直後の共産党幹部の頭には植林すべき緑として、心に輝くあの懐かしい杉の木しか思い浮かばなかったのかも知れないな、と。

(図4)(図5)

花粉症の増加と寄生虫の減少

 話は変わりますが、近年の日本で花粉症などアレルギー疾患が増加したのは、回虫始め寄生虫が減少したその結果だという話があります。
 それは試験管内で寄生虫が、アレルギー反応を抑制する物質を分泌していること。
 1949年には63%だった日本人の寄生虫感染率が、1990年代には0.02%に減少していること。
 ニホンザルでもスギ花粉症は観察されるが、サルの花粉症は1970年から1990年まで20年間抗体陽性率が不変で増加のみられないこと。
 しかもサルの寄生虫感染率は80%以上でこの40年間変わっていないこと。こうした現象に基づいています。
 さらに、人間がその一方的な論理で、害になる寄生虫を退治してしまったために、寄生虫が予防していた花粉症になってしまった。そもそも人間と寄生虫とは「共生」すべき生きもの同士で、それを勝手に断ち切ると結果的に弊害が現れる、と言うのです。
 しかし、それに対して、論理的に矛盾するという考え方もあります。
 1949年頃の日本に回虫が多かったのは、戦後の食糧難の時代に家庭菜園を作って食糧事情を少しでも改善しようとして、下肥を大量に使用したせいでした。
 この時代、銀座4丁目を肥桶を満載した馬車が闊歩していたといわれます。
 戦後の日本社会が落ち着くと下肥はあまり使用されなくなり、回虫感染の機会は減ります。
 ビルブームが起こり高層建築が増えたことも、水洗便所と下水道の普及に拍車をかけ、ますます回虫に接触する頻度は減少します。これら高層建築による密閉型住宅は冬でも湿気がこもりがちで、ダニが増えます。
 ダニの増加と軌を一にして、スギ花粉症の激増したことは今までに述べてきた通りです。
 これらのアレルギー原因物質の増加は、当然アレルギーを増やします。そしてそれは時期的にたまたま寄生虫の減少に一致しますが、寄生虫減少との関連は今のところ認められていません。
 そして私たちは実は中国で、寄生虫感染例に対して実際にアレルギー調査を行い、寄生虫感染はアレルギー反応に何の影響も与えていないことが明らかになりました。
 私たちの後を追って国内外でいくつか、同様の調査が行われましたが、それらはすべて私たちと同じ結果を示しています。
 人間と寄生虫との共生説から飛び出した「寄生虫による花粉症予防説」。しかし現実にはこのロマンチックなお話は必ずしも当てはまらないような感があります。
 ここでは日本人と花粉症にまつわるさまざまのエピソードから、私たちの疫学調査の実際のデータを核に、花粉症の輪郭が浮かび上がるよう試みました。
 いまでは国民病と騒がれる花粉症についてさらに興味を持って頂き、正確な知識をもとに対応して頂けるならこれに過ぎる幸せはありません。

(図6)

(図7)

 なお本文には、以下の2つの文献の内容を引用してあります。引用を許可してくださった執筆者の方々に深謝致します。

○横山敏孝、他:花粉症発生源としてのスギ林面積の推移、IgE抗体産生と環境因子―スギ花粉アレルギー急増の原因解明への学際的アプローチ、村中正治、他・編、メディカルトリビューン、東京、1990、67―79頁
○井上 栄:文明とアレルギー病―杉花粉症と日本人―、講談社、東京、1992