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バルト三国ツアースナップ集5 ~杉原千畝を巡る旅~ 三好 彰

引き続きバルト三国ツアーの記事をご紹介いたします。

●8月18日(木)

○タリン(図1)

 ホテルの部屋にある窓から外を窺えば、まだ人々が動き出す前の朝焼けに染まるタリン市街が広がっています。
 昨日に続きエストニアの首都タリンの市街を見て回ります(タリンの詳細は前号をご覧ください)。

(図1) (図1)

○歌の広場(図2)

 エストニア最大のお祭りである「歌と踊りの祭典」が開かれる会場です(№265表紙参照)。
 5年に1回行われるこの祭典の始まりはベルリンの壁崩壊直前の1988年9月、民族人口の3分の1にものぼる約30万人があつまり、当時ソ連に禁止されていた民族音楽を合唱しました。
 後に「歌う革命」とうたわれたこのイベントは、エストニア独立の機運を高めたと言われています。
 開催中は民族衣装に身を包んだ3万人以上の歌い手が集い、その歌声を聴きに全国から10万人を超す人が参加するそうです。

○カドリオルク宮殿(図3)

 かつてバルト地域を支配したロシアのピョートル大帝が、妃であるエカテリーナのために作った離宮がこのカドリオルク宮殿です。
 建物は後期バロック様式で作られ、現在は美術館として多くの絵画や美術品が収納されています。

○大ギルド会館(図4)

 いまはエストニア博物館として公開されている大ギルド会館は、1410年に建設されました。
 ギルドとは各職業間の争いを避ける為に作られた組合です。タリンに複数あったギルドの内、ここを本拠とした大ギルドは最高位にあって市長や市議会議員はすべてこのギルド員から選出されたそうです。

○ラエコヤ広場(図5)

 旧市庁舎の前に広がるラエコヤ広場は、デンマーク人に占領される12世紀以前から市場として存在していました。
 市の中心という事もあり催事や結婚式の行進、まれにですが罪人の処刑も行われていたそうです。
 私たちが訪れた時にも、屋外カフェのパラソルが軒を連ね、パフォーマーが自慢の技を行き交う市民に披露していました。

○旧市庁舎(図6)

 旧市街の中心にある旧市庁舎は、14世紀半ばに建てられた北ヨーロッパに唯一残るゴシック様式の建物です。
 町のシンボルである高さ65メートルの塔上には、市民から「トーマスおじいさん」と呼ばれる銅像が設置されています。
 普段は一般市民に公開されていますが、中世の時代に賓客を迎えてきた「市民の間」はいまの政府のレセプションでも利用されています。

○聖ニコラス教会(図7)

 13世紀前半に建てられた古い建物です。
 船乗りの守護聖人と呼ばれたニコラス(サンタ・クロース)に捧げられ、外敵の脅威にさらされた際は要塞としての機能も果たしてきたそうです。
 ソ連軍の空襲により建設当時の内装は残っていませんが、縦1.6メートル、幅7.5メートルものキャンバスに描かれた生者と死者がダンスを繰り広げた様子を描く「死のダンス」は、15世紀に製作された貴重な絵画です。
 現在は、博物館兼パイプオルガンのコンサートホールとして利用されています。

○アレクサンドル・ネフスキー聖堂(図8)

 ロシア帝国時代の1901年に建てられたロシア正教の教会で、典型的なロシア風の建築様式が目を引きます。
 由来であるアレクサンドル・ネフスキーは古代ロシアの英雄です。当時、攻めてきたチュートン騎士団(ドイツ)とのチュド湖「氷上の決戦」にて、ノヴゴロド公国(ロシアの都市国家)を勝利に導いたアレクサンドルを、死後に列聖したのがはじまりです。その戦いを描いた映画も製作され、プーチン大統領もお気に入りとか…。平原続きで、地理的には侵略されるのが当たり前だったロシアにとって、自立で反抗したシンボルとなっています。
 しかし、エストニアの人々にとってはロシア支配を想起させるとして、あまり良い印象は持たれていないようです。
 内部には日露戦争で沈没したロシア艦隊を記念するプレートが掛けられており、思いもよらぬ屈辱を味わったロシア人たちの気持ちを物語っているように感じました。

○トームペア城(図9)

 トームペアの丘にあるトームペア城は13世紀前半に建てられた騎士団の城です。
 タリン市街を一望できるトームペアの丘(標高24メートル)に建設されたこの城は支配者が変わるたびに補強と改築がなされました。
 18世紀後半にエカテリーナ2世が知事官邸として使用するために改築を命じた事から現在の姿になりました。その為、正面から見ると城というよりは宮殿といった方がしっくりとくる外観です。
 城で一番高い塔は50.2メートルあり「のっぽのヘルマン」という愛称で親しまれています(絵ハガキ)。
 この像が持っているのはエストニア国旗ですが、かつてロシアが支配した時代にはその手にはロシア帝国旗が翻っていたそうです。
 現在は政府機関の一部と議会が城内に設置されているので、内部の一般公開はされていません。

○歴史を振り返る

 かつて日本が、ソ連(社会主義)とアメリカ(資本主義)という2つの大きなイデオロギーのぶつかる狭間で翻弄されたのと同様に、バルト三国も同じ様な状況に立たされたことがあります(図10、11)。
 バルト三国が独立を宣言する以前、支配者であるロシア・ソ連は自国の人間をバルト三国に移住させ、人口に占めるロシア・ソ連人の割合を一定数以上に保ちました。そうすることで、その国に対する影響力を維持しつつ、万が一の際には「自国民の保護」を理由に軍事介入できる体制をとっていました。
 バルト三国以外の同様の例では、2014年に起きたクリミア事件が有名です。
 現在でもバルト三国を含めたロシア周辺の国々には、少なくないロシア系の住民が生活しています。

○侵略の正当化

 こういった事象が起きる背景の1つに、その国の生存圏(ドイツ語:レーベンスラウム)の確保が考えられます。
 生存圏とは「自分たちが生存(自給自足)する為に必要な領土」とされています(図12)。
 国の人口が増えるにつれて必要とする土地・資源も同様に増えていきます。その人たちを養う為には他国への侵略(領土拡張)もやむを得ない状況なのだと自国民に刷り込み、侵略を正当化するのに使われた言葉です。
 この言葉は、ナチス・ドイツのヒトラーが著した「我が闘争」でも触れられており、ドイツ民族の生き残る為としてヨーロッパを支配する事が第一とされました。
 そしてヒトラーは強大な陸軍力をもってヨーロッパの大半を勢力下に治めたのです。

(図10) (図10)

(図11) (図11)

(図12) (図12)

○楽観論からの悲劇

 ソ連やドイツが生存圏の拡大を狙うなか、エストニア政府はフィンランドやラトビアに対ソ連の共同戦線を張るよう呼びかけます。
 しかし、両国はその提案を受け入れませんでした。自分たちにまで独ソ不可侵条約による侵略の被害が及ぶとは考えていなかったのです。
 この時の甘い判断が後のソ連によるフィンランド侵攻を招き、バルト三国のソ連化を進める事になるのですが、当時の状況を思えばこの判断も仕方がなかったのかも知れません。
 その時のフィンランドやラトビアからみれば、国際的に孤立していたエストニアを助ける実利がなく、ソ連の心証を悪くしたくない、他人の戦争に巻き込まれたくない、という思いが政府や国民にはありました。
 また、エストニア自身にも悪化していく状況を覆すだけの国際的な影響力はありませんでした。
 結果として、ソ連はバルト三国「侵略」その粛清計画を推し進め、バルト三国は民族の存続自体が危ぶまれる事態に陥りました。
 対岸の火事がじつは、自分たちの足元にまで及ぶほどの大火だと見抜けなかったわけです。

○自他の常識の違い

 私たちの住む日本は周囲を海に囲まれています。そのおかげで直接的に他国と接するという経験が殆どなく「敵」というものの存在を肌で感じる事がありません。
 そうした限られた範囲で暮らす私たち日本人は、他人との争いを極力避けて協調を重んじるようになりました。
 しかし、私たちにとっての当たり前の価値観が、周りの国にとっての当たり前だとは限りません。
 「個人」レベルで言えば、国や人種などを問わず平和な生活を望んでいる事に違いはありません。しかし、「国」という大きな視点でみると、まったく異なる常識が関与してくることも知らなければなりません。
 自分の幸せが他人の幸せとは限らないのと同じように、狭い視野で物事を見てしまうと、本質を無視して自分にとって都合のよい部分だけを見てしまいがちです。
 自分の身は自分で守るという生物の基本原則を忘れることなく、常に最悪の事態を「想像」することを怠らない姿勢。それが、本来私たちのあるべき姿なのかも知れません。

○国際認識の欠如

 国際情勢はそれこそ生き物のごとく、時にすごい勢いで予想だにしない動きをします。そして、その動きに無関心でいられる内は良い(?)のですが、自分たちの足元がグラグラと揺れ動いてから気付いて悲鳴をあげても、誰も耳を貸してはくれないのが「国際常識」です。
 当時の平沼内閣が、ソ連に対抗するためにドイツとの関係強化を図ろうとした矢先、突如としてそのドイツがソ連との間に独ソ不可侵条約を締結しました。
 政権の支持基盤を失った平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」との言葉を残して解散しますが、これは今では国際認識の欠如そのものとみられています。
 せめて私たちは杉原千畝を偲び、今現在のこの大陸の東西の観察に努めたいと思います。



つづく