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バルト三国ツアースナップ集4 ~杉原千畝を巡る旅~ 三好 彰

 引き続きバルト三国ツアーの記事をご紹介いたします。

●8月17日(水)

○リガ → タリン

 朝から小雨模様のリガを後にし、向かう先はバルト三国最後の訪問地であるエストニアです(図1)。
 エストニアはバルト三国では一番北に位置する国で、フィンランド、ロシアとともにフィンランド湾に面する共和制国家です。
 国の面積は日本の九州本島の約1,2倍でほとんど平坦は平野で構成されており、最高標高が318m程しかありません。
 人口は約123万人で、首都タリンには3分の1の約42万人が住んでいます。
 この地に住むエストニア人は先進的な気質に富んでおり、1991年にペレストロイカ後のソ連から独立すると大胆な政治経済の改革を行いました。
 その結果、現在ではIT技術を応用したベンチャー企業が多数産まれており、「スカイプ」などは日本でも良く知られているエストニア企業の商品です。
 他には、元大関の把瑠都(バルト海です)が日本では一番有名なエストニア人ではないでしょうか。
 国境線上にあるドライブインを超えると、いよいよエストニアに入ります(図2)。

(図1) (図1)

(図2) (図2)

○首都タリン(図3)

 エストニアの首都タリンは、元々は海岸に住む漁師が集まる小さな村落でした。そこに6世紀頃にレヴァラ族という民族が移住し、現在のトームペアと呼ばれる丘に居住し、その周囲に商人などが集う町が形成されていったそうです。
 タリン市街も、今まで訪れた二国と同様に旧市街を囲むように新市街が広がっています。
 旧市街は主に上流階級の住む「山の手」と市民の住まう「下町」に分かれており、この2つのエリアをまとめてタリンと呼ぶようになったのは、130年程前の1889年頃だそうです。

(図3) (図3)

○エストニア野外博物館(図4)

 市街中心部から西へ5㎞ほど行った場所にあるエストニア野外博物館は、17~20世紀初頭のエストニア各地の木造建築が移築された民族博物館です。
 各建築物は森林の中に点在しており、散策をしながらかつてのエストニア人の暮らしぶりを見ることが出来ます(図5)。
 ソ連時代の農業集団化(コルホーズ)政策によって古くからある多くの伝統的な農村は破壊されてしまい、今ではほとんどその姿を見ることは出来ないそうです。
 これら移築された建造物が実際に使われていた時代、この地を支配するドイツ人貴族によって、エストニア人は農奴として管理されていました。
 写真(図6~8)の建物はみるからにすきま風が吹き抜ける粗末な造りで、別の建物の窓は採光窓としては極めて小さく手のひらサイズしかありません。そのため室内はいつも薄暗く陰鬱とした空気を感じさせます。ベッドにしても大人は足を抱え込む姿勢にしてやっと寝ることが出来る程度の大きさしかありません。
 現在のエストニアの人たちの生活は、かつてどのような経過を経て成り立ってきたのか、それを忘れてはならないと、遠い祖先からの強いメッセージをいつも受け取っているような気がします。
 また、それぞれの建物は時代によって個性があり、なかでも茅葺き屋根の建物を見ると、どこか懐かしい日本の農家のようにも見えてきます(図9)。
 園内には軽食やドリンクが売られているレストハウスや、鍋や食器、馬蹄などが売られている売店もあります(図10・11)。

(図4) (図4)

(図5) (図5)

(図6) (図6)

(図7) (図7)

(図8) (図8)

(図9) (図9)

(図10) (図10)

(図11) (図11)

○ソ連の東西を結ぶ杉原千畝

 前号の編集後記でも書きましたが、ソ連の東にあるノモンハン、西にあるバルト三国、これらの遠く離れた2つの地域の出来事が、実は密接に絡んでいることが現地へ直接訪れることによってわかってきました(P.3地図)。
 まず、その当時のソ連の領土拡張戦略(ロシア帝国の南進政策の延長)の目標がユーラシア大陸の東西から海洋進出を図ることを目標としていました。
 そのため、極東では満洲(中国東北部)、沿海州(ユーラシア大陸の日本海側)、朝鮮半島をその手中におさめ、太平洋へ出るための補給路を構築すること。ひるがえって西ではバルト三国やポーランドを占領することによって、バルト海から北海、そして大西洋へと進出するための足掛かりを着々と作っていました。
 そのソ連の動きを追っていたのが2016年に映画公開されて認知度が高まった日本の外交官・杉原千畝です。
 彼は日ソの領土紛争であるノモンハン事件が起きるまで満洲に滞在し、対ソ連工作を担っていました。そしてノモンハン事件が終息するやいなや東欧のフィンランド及びリトアニアへと赴任します。
 そして杉原はナチス・ドイツの迫害から逃れたポーランドのユダヤ人難民たちに対して、日本を通過して第三国へと渡るためのビザ(渡航許可証)を日本本国の意向に反して発行し、結果として約6000人ものユダヤ人の命を救いました。しかし杉原の任務はあくまで対独も含めソ連の情報収集であった事は間違いありません。

○奇跡のビザとノモンハン

杉原の発行したビザは、後に「奇跡のビザ」と呼ばれユダヤ人の心に大きく影響を残すことになりました。
 しかし、実はこのビザが効力を発揮できた背景には、前述のノモンハン事件後に締結する「日ソ停戦協定」がなければ、違う結果をもたらす可能性のあったことがわかりました。
 ユダヤ人難民たちが取得した杉原ビザを活用するためには、ソ連を横断するシベリア鉄道を利用する必要がありました。
 先ほど述べた通り、日ソはノモンハンにおいて第二次世界大戦以前では稀となる航空・機甲戦力の近代的会戦を行ったばかりでした。
 なおかつソ連ではナチス・ドイツ同様にユダヤ人に対する迫害が激しく、ユダヤ人難民がソ連国内を通過する許可が下りる可能性は低いと杉原は考えていました。
 しかし、その時点でのスターリンとソ連政府の意識はドイツとの緊張が高まる東ヨーロッパに向いており、両面戦争の危険のある日本との関係を改善したいと考えていました。
 そこで「日ソ停戦協定」が結ばれる流れとなり、日本の通過ビザを持つ人であれば無条件でソ連国内を通過できるようになりました。
 こうして杉原ビザを持ったユダヤ人難民たちはシベリア鉄道を経由して、無事に避難することができたのです。
 もしノモンハン事件が起きていなかったら、もし杉原が独断でビザ発給を行っていなかったら、まるで違う結果になっていた可能性を否定できません。これら東洋の隅と西洋の隅のまるで別の事柄のように思える出来事も、深く調べていくうちに非常に密接な関係にあることが再認識できました。

つづく