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みみ、はな、のどに関する病名、症状などの用語集

旅レポ6 2014年アレルギー調査〜 満洲の風を感じて 〜総務課 青柳 健太

 アレルギー調査で訪れた旧満洲について、6話目のレポートをご紹介させて頂きます。

9月17日(火)

 前号では、旅順攻囲戦の激戦地の1つである要塞・東鶏冠山北堡塁をご紹介しました。ここでは、映画のタイトルとしても有名な二〇三高地についてお話します。

●英霊の丘・二○三高地

(図1)砲弾を集めて作られた忠魂碑 (図1)砲弾を集めて
作られた忠魂碑

「爾霊山は嶮なれども豈攀じ難からんや、男子の功名克艱に期す、鐵血山を覆ひて山形改まる、萬人齊しく仰ぐ爾霊山」
 日露戦争にて、旅順攻囲戦を戦った日本帝国陸軍 第三軍司令官・乃木希典大将の詩です。
 日露両軍に多大な犠牲を出した二〇三高地の戦い後、戦死した2人の息子と兵の慰霊のために詠んだと言われています(図1)。

 その意味は、「爾霊山(二〇三高地の揶揄)がいかに険しくとも、男たるもの功名を立てるには困難に打ち勝つ覚悟が必要である。その決意のもとに戦い、山全体は兵器と人の血で覆われ、山の形すらも変わってしまった。この山は爾(あなた達)の霊の山であると、万人が仰ぎ慰めるだろう」と、地名である二〇三の数字に掛けた詩になっています。
 旅順北西の山中、旅順港が見渡せる標高203mの丘が二〇三高地です(図2・3)。

(図2)二〇三高地から望む旅順港 (図2)二〇三高地から望む旅順港

(図3)旅順周辺の地図 (図3)旅順周辺の地図

 当初この地点は、北東方向から進軍する日本陸軍にとってあまり重要な目標ではありませんでした。ですが、日本陸・海軍の統帥機関である大本営は、二〇三高地が旅順港を砲撃するための観測点として有用であると主張、西側の二〇三高地から攻めるよう指示します。
 乃木大将は、西方面からの攻撃は被害が拡大する懸念があるので採用したくありませんでした。
 しかし、海軍や大本営からの圧力に抗しきれなくなった乃木大将は、折衷案として北東側と西側からの両面作戦を実施しました。
 1904年11月26日、要塞群に対しての第3回総攻撃が実施されました。地雷原と鉄条網、さらには周囲の陣地からの火線が加わった二〇三高地の防御戦は極めて強固で、一度は占領したもののロシア軍の猛烈な反撃にあい一部を除き奪取されます。その後も、一進一退の攻防が続き、結果的にロシア軍は予備兵力を使いきってしまい継戦能力の殆どを失います。

(図4)日本陸軍に爆破された東鶏冠山北堡塁 (図4)日本陸軍に爆破された東鶏冠山北堡塁

 12月5日、二〇三高地一帯はついに日本陸軍に制圧されます。勢いづいた陸軍は、北東方面の要塞群を大量の爆薬により爆破し、順次攻略していきました(図4)。
 年が明けた1905年1月1日、ロシア軍の旅順要塞司令官ステッセルは降伏を決断。旅順郊外の水師営にて停戦協定が結ばれました。

●戦闘の変遷

 火砲が発達する前の戦場では、兵隊が列をなして前進する人海戦術が主でした。しかし、旅順攻囲戦では、機関銃で強固に防御されたロシア軍の要塞に対し、日本軍の人海戦術による正面攻撃では、多大な人的被害を生じさせる消耗戦になることが証明されました。
 攻略のきっかけとなったのは、児玉源太郎らの要望で運び込まれた280㎜榴弾砲、いわゆる重量級の攻城砲の存在でした。
 これら攻城砲による砲撃で要塞を弱体化させた後、歩兵が要塞近くまで掘った塹壕を伝って前進し、要塞を占領していったのです。
 ちなみに、後の第一次世界大戦の西部戦線では、より大規模な塹壕線が構築されました。お互いの勢力がこう着状態に陥り、連合国・同盟国側の双方に戦争史上最大ともいえる1000万人(軍人のみ)の戦死者を生み出す結果となったのです。
 こうした人海戦術を主とする戦い方が変化するには、戦車を始めとする機動力の高い装甲車両の出番を待つことになります。 
 二〇三高地に外国人が立ち入れるようになったのは1996年からで、遺跡にはロシア軍の塹壕や日露両軍の使用した大砲が設置されています(図5~8)。

(図5)一行を狙うあやしい顔の稲川Dr.(愛知医大) (図5)一行を狙うあやしい顔の
稲川Dr.(愛知医大)

(図6)ロシア軍(俄軍)の150mmカノン砲 (図6)ロシア軍(俄軍)の
150mmカノン砲

(図8)現在の日本にはこの大きさの大砲はありません (図7)旅順港に照準された日本軍の280mm榴弾砲

(図8)現在の日本にはこの大きさの大砲はありません (図8)現在の日本にはこの大きさの大砲はありません

●清朝水軍の司令部・水師営

(図9)再建された水師営跡 (図9)再建された水師営跡

一行は、旅順攻囲戦の停戦協定が結ばれた水師営跡に向かいました(図9)。元となる建物は風化が激しく、今あるのは再建されたレプリカです。内部には、旅順攻囲戦の写真などが飾られています(図10・11)。


(図10)停戦協定後に撮影された有名な写真
中段の中央左が乃木大将、中央右がステッセル中将 (図10)
停戦協定後に撮影された有名な写真
中段の中央左が乃木大将、
中央右がステッセル中将

(図11)今も残されている望台砲台 (図11)今も残されている望台砲台


(図12)星海広場に建つ香港返還記念の塔 (図12)星海広場に建つ
香港返還記念の塔

 水師営のレストランで昼食を摂った一行はその後、海辺の景勝地・老虎灘や、大連港、アジア最大の広場である星海広場(図12)を見学しました。

9月18日(水)

(図13)清華大学の劉江永先生と北京にて (図13)清華大学の劉江永先生と北京にて

大連の戦跡を巡った翌日、院長、青柳、高橋Ns.は他の参加者と別れ、一路北京へと向かいます。  北京では、清華大学の劉江永先生や王毅様と面談し、日中両国関係について意見交換をしてきました(図13)。

先生方、お忙しい中お時間を頂きまして、ありがとうございました。  
また、貴重な機会を与えて頂いた院長初め、調査に参加されました皆様、関係各位に心から御礼を申し上げます。